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 「浅田の掟」の鍵を握る人物として、理子から突然のご指名を受けた夏川は、右手の人差指で自分の顔を指差したまま、気の毒なほど「?」な表情になっていた。


「……どうして僕だけ? 『浅田の掟』のことは、みんなで一緒にいたときに先輩から聞いたはず……そうだよねえ?」


 不安に駆られた夏川が、少し離れたテーブルにいる春山と冬木に視線を向ける。無言で首を縦に振る二人。ちょうどそこに、柳井教授の研究室に行っていた秋田も戻ってくる。ようやく春夏秋冬が揃ったものの、部屋に充満する緊張感のせいで、このコンプリートに喜ぶ者は一人もいない。


「私、見たんです、浅田さんの修士論文」

「浅田さんの修論?」


 驚きで無意識に唱和する三人に、事情が分からない秋田がキョロキョロと顔を左右に振る。春山が秋田の耳元に口を寄せ、自分たちの置かれた状況を簡単に説明した。


「『浅田の掟』って、修論で外国語の先行研究を引用しちゃいけない、って言ってましたよね」

「そうだよ。修論で要求されるのは、手際のいい小手先の調査能力じゃなくて、自分自身の読解力だから」

「あのさあ、ろくに先行研究の調査もしないで、どうやって独自の『読解力』とやらを主張できるわけ? そういうの、井の中のかわずなんとか、って言うんじゃないの?」

「二人とも、ちょっと待って」


 先日の口論の再現になりそうな流れを、理子がはっきりとした口調で制止した。助教の丸山は、口出しせずに事態の推移を注視している。学生どうしのトラブルを調停するのは助教の仕事だが、学生たち自身が問題解決に動いているときには、余計な口を挟まない方がよい。


 が、悪意のない傍観者でいようとする丸山を、理子が容赦なく輪の中へ引きずり戻す。


「丸山さん、夏川くんの専門はなんでしたっけ」

「夏川くんの専門……Nだから……いや、なんでもない。ニーチェ、もちろんニーチェだよ」

「浅田さんの専門も、ニーチェだったんです」


 その場の全員がびっくりして目を見開いている。特に夏川からは、露骨にごくりと唾を飲む音が聞こえてきた。


「実際に修論を見て思ったんですが……浅田さん、だったんじゃないでしょうか」

「?」


 春山の不可解そうな表情はそのままにして、理子が続ける。


「浅田さんの論文には、ドイツ語やフランス語の二次文献が引用されていました。でも、しっかり読みこんでいたとは思えなかったんです」

「どうして?」


 秋田がいぶかしむ様子で理子の話をさえぎる。


「引用されているページ番号が、全部ひとケタだったんです。それって要するに、そこまでしか読めなかったってことじゃないでしょうか」

「そんなの偶然かもしれないじゃん。本の最初に重要な記述があったって、全然おかしくないでしょ?」


 冬木が強い口調で反論する。


「それはそのとおりだし、私の考えも憶測にすぎないんだけど……ただ、ドゥルーズが英訳で参照されていたのが気になって」


 論文で外国語の文献を利用する際には、可能なかぎり原著を参照するのが普通である。でなければ、その言語ができないことをわざわざアピールすることになるからだ。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズを英語で引用したとすれば、それはフランス語が不得意だと白状することである。


「外国語が苦手だった浅田さんは、使。本当は、外国語を使うことが『善』であるにもかかわらず」

「…………ってことか……」


 先ほどから一人だけ押し黙っていた夏川が、重い口を開いた。


「ルサンチマン」(ressentiment)は怨恨や敵意を意味するフランス語で、ニーチェが『道徳の系譜』(1887年)などで用いた概念である。「良い」と「悪い」という善悪の価値が歴史的にどのように生まれたのかを論じたこの著作で、ニーチェは二つの価値評価の仕方を提示している。


 一つ目は、もともと優れている者たちが自分の強さや美しさを肯定してそれを「良い」とし、反対に自分たちよりも劣った者たちを「悪い」とする「貴族道徳」である。


 二つ目は、こうした貴族による支配や抑圧にしいたげられた者たちが、支配者に対する憎悪から彼らを「悪い」とみなし、逆に自分たちを「良い」とみなす「奴隷道徳」である。


 ニーチェは、質素や清貧をよしとするキリスト教的な価値観は、貴族道徳に対する「ルサンチマン」から生まれたと考えて、こうした嫉妬や復讐からの解放を目指した。あらゆる既成の価値から自由になった「超人ちょうじん」の思想も、ニーチェのこの企図の表明である。


「ルサンチマン」という言葉を聞いて、夏川を除く三人も、即座に「浅田の掟」の由来を理解したようだった。夏川が続ける。


「でもさ、なんで浅田さんのルサンチマンがわざわざ『掟』にまでなってるわけ? 誰も文句を言わなかったの?」

「これも私の推測なんだけど……」


 浅田の代のM2エムニは浅田ただ一人だった。浅田が修士論文を提出したとき、先輩たちはすでに博士課程に進学しているし、同期は誰もいなかった。浅田の価値観を後輩に伝えるのに、邪魔となる存在はいなかったのではないだろうか。


「いやいや、浅田さんの後輩だって、そんなに従順じゃなくてもいいじゃん。どうして簡単に言うこと聞くんだろう?」

「でも……ゴメン、言いづらいけど、みんなだって同じじゃない? 『浅田の掟』のこと、先輩から聞いたって……『掟』に同意するにせよ反発するにせよ、一度はそれが『掟』だって認めたんじゃないの?」

「……それは、そうだけど……」

「浅田さんの後輩にとって、浅田さんは目上の存在なわけだから、って可能性はない? もともとはルサンチマンに由来した奴隷道徳だったとしても」


 重苦しい雰囲気に、理子の言葉を継ぐ者は誰もいない。


(続く)

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