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納涼会が始まり、哲学専攻所属の学生や教員たちが
「どうしたんですか、
少し離れたところの話の輪から抜け出してきた大道寺が、ニコニコしながら近づいてくる。
「……いえ、そういうわけではないんですが……」
「アリストテレスの弟子に、テオプラストスというひとがいます」
「?」
「彼は、宴会でずっと黙っていたひとに、こう言ったんですよ。『もし君が無学なら、黙っているのは思慮深いけれども、教育があるのだとしたら、それは思慮のないやり方だよ』と」
「えっと……無学なら、黙っていた方が無学がバレなくていいけれど、そうでないなら喋った方がいいって、そういうことですか?」
「そうです。そして、柳井先生の薫陶を受けた東雲さんが無学なはずはありません」
「薫陶と言っても、三ヶ月ですけどね……」
よく見ると、大道寺の顔がほんのり桃色に染まっている。お酒が強いのか弱いのかは分からないが、少なくとも良い気分になっていることは間違いなさそうだった。
「……実は、浅田さんのことがまだ気になっていて……」
大道寺が一瞬、酔いから醒めたような眼に戻る。
「どうです、東雲さんも気づいたんじゃないですか」
「はい、間違っているかもしれませんけど……」
二人が話しているのを見て、柳井教授が「おっ」と言いながら寄ってきた。手には細身の白ワインのボトルが握られている。
「どう、東雲さん、楽しくやってる? あれ、あんまり飲んでないみたいじゃない。お酒はあまり飲まないの?」
「いえ、別にそんなことは……。特別強いわけでもありませんけど」
「よかったらこれ、飲んでみる? 僕が持ってきたワイン」
「私、ワインはまだおいしさが分からなくて……あ、すみません、先生が差し入れてくださったものなら、ぜひ」
「ふふふ、気を使わなくてもいいんだよ。まあ、ダメ元で試してみてよ。ほら、大道寺くんも」
「ありがとうございます」
柳井は未使用のプラスチックのコップを二つ取り、静かにボトルを傾ける。黄金色のなめらかな液体が、波を立てながら注がれていく。
「ちょっと匂いを嗅いでごらん」
言われた理子がコップを鼻に近づけると、
「うわっ、すごくいい香りがします……バラ、みたいな? ん? 蜂蜜かな?」
くんくんと匂いを嗅ぎ続ける理子を見て、大道寺も「どれどれ」と言ってコップを手に取り、優しく回してから鼻元に寄せた。
「……あ、先生、ゲヴュルツトラミネールですか?」
「お、さすが大道寺くん。すぐ分かったね。東雲さんもこれなら飲めるかもしれないよ」
「…………あ、おいしい! ほのかに甘いんですね」
「でしょ? ワイン苦手なひとでも、好きだと思うんだ」
理子の好反応を見て、柳井が嬉しそうに笑う。
「サバティカルでドイツに行くから、飲み放題で嬉しいよ……大道寺くん、秋から東雲さんをよろしく。東雲さんも、困ったことはなんでも大道寺くんに相談しなさいね」
「はい、ありがとうございます。もう、けっこう相談に乗っていただいているんですが……このあいだも浅田さんという方のことで」
理子の口から思いがけない名前を聞いた柳井の眼が、驚きで二倍の大きさに広がった。
「ニーチェの浅田さん? 懐かしいなあ。僕の何年か上の先輩だよ」
「そうなんですか? えっと……じゃあ……『掟』のことも?」
「東雲さんがそんなことまで知ってるの? 驚いたな。そうそう、当時、浅田さんの言うことを真に受けたひとがけっこういてね」
「先生も、ですか?」
「僕はどっちかというと懐疑的だったんだ。ドイツ語が好きだったしね。浅田さんは……たしか外部進学だったよな。あまり得意じゃなかったのかなあ」
昔話に花を咲かせる柳井の隣で、「外部進学」という言葉に反応した大道寺が「しまった」という顔になっている。
「……外部進学……浅田さん、そうだったんですか……」
「あ、いやいや、変な意味で言ったわけじゃないんだ。実際、浅田さんは優秀だったし。外部進学と外国語の
「えっと……先生以外の方たちは、浅田さんの言うことを信じたんですね」
「そうなんだ。あの頃は就職がよかったからね。博士課程に入って一、二年でどこかの助手になるパターンが多かったんだ。だから修論はみんな気合いを入れて書いてたよ」
博士課程の在籍中に大学への就職が決まるということは、修士論文が実質的に唯一の「研究業績」という場合もあっただろう。先行研究を上手にまとめた器用な論文よりも、自己主張の強い尖った論文の方が印象に残りやすく、就職に有利に働いたということもあるのかもしれない。
「浅田さんはその後どうなさっているんですか?」
「うーん、たしか大学には就職しなかった気がするなあ。理由は知らないけど」
「……そう、ですか」
「東雲さん」
二人の会話を黙って聞いていた大道寺が、明るい声で理子の名前を呼んだ。
「大事なのは、自分の物差しに自信を持つことですよ」
「物差し? 定規ですか」
「はい。自分の物差しが本当に1メートルなのかと不安になると、つい他人の物差しに合わせたくなってしまいます。他人の物差しの方が正しいとはかぎらないのに、です。結果として、自分の物差しも80センチに縮んでしまう」
「……どうしたら自分の物差しが正しいって思えるんでしょうか」
「僕らの分野だと、やっぱり外国語を鍛えることだと思います。自分はしっかり読めるんだという揺るぎない自信があれば、周りはあまり気にならなくなります……ですよね、柳井先生?」
「大道寺くん、いっぱしの指導教員になってるじゃない。安心安心」
柳井が珍しく豪快に笑っている。と、そこへ真っ赤な顔をした
「リコさん! なんで暗い顔してるんですか?」
「ちょっと、友ちゃん! 飲み過ぎじゃないの? 顔、真っ赤だよ」
「私は、顔が、少し赤くなるだけで……中身は、大丈夫なのです」
「『なのです』じゃないでしょ、もう……先生たちもなんとか言ってくださいよー」
柳井も大道寺もおかしそうに微笑んでいるだけで、なにも答えない。
「リコさん、夏休み、遊びましょうよー。毎日読書会しましょうよー」
「毎日なんてできるわけないじゃん、あー、困ったなぁ」
友香は理子の腕にしがみついたまま離れない。
「……あ、そうだ、東雲さん。如月さんと遊んでるところ、お邪魔するけど」
なにかを思い出した大道寺が口を開く。
「遊んでないですし、全然お邪魔じゃないです。どんどん介入、っていうか介抱してください」
「お盆明けの集中講義、忘れないでくださいね」
「はい、ちゃんと覚えてます。よろしくお願いします」
「私もー、出ます。リコさんと一緒にー」
(……よし、夏休み、勉強がんばろう……それにしても……左腕があったかいな……)
空いた右手で友香の頭をよしよしと撫でながら、理子は夏休みの決意を固くした。
(第五講 終わり)
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