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その日は夕方から哲学専攻の主催で、イギリスの著名な哲学者の講演会が予定されていた。大学院生には運営の手伝いのための招集がかかっていて、普段は大学に来ない水曜日にもかかわらず、理子は南郷五丁目に来ていた。三限や四限に授業が入っているひともいるから、昼休みにいちど共同研究室で簡単な打ち合わせをすることになっている。
せっかく大学まで来るんだから、と、理子はいつもの習慣で午前中は「クレール」で本を読むつもりだった。マスターの
十一時ごろ、カランカランとドアが鳴り、客が入ってきた。
「いらっしゃい……ま……せ……」
普段と様子が違う小山内の挨拶が耳に入り、読んでいた本から顔を上げた理子は、驚きのあまり理性が口から飛び出しそうになった。
中折れ帽をかぶった上品な老年男性が、ラックから漫画雑誌を一冊手に取り、ゆっくりとカウンターに進んでいったのだ。
かつての常連・田中であることは間違いなかった。
「いつもの。『ピック・ドゥブル』」
「は、はい、かしこまりました」
さすがの小山内も少なからず緊張しているようだった。一方、混濁した理子の理性は、もはや理性の体をなしていなかった。
コーヒーが出されても、田中は黙って漫画雑誌『アーベント』のページをめくっている。理子と小山内の緊張感が張り詰めた店内で、サイフォンのコポコポという音だけが時間を刻んでいた。
カウンターの中の小山内と、テーブルの理子の眼が合った。小山内は意を決したようだった。
「……あの、田中さん……ずいぶんお久しぶりですね」
田中が雑誌から視線を離し、小山内の方を向く。
「……ああ、そうなるかな」
「最近、どうかなさったんですか。なにか変わったことでも?」
小山内が慎重に言葉を選んでいるのが理子にも伝わってきた。カウンターから離れたテーブルに座る理子の神経は、すべて右耳のあたりに集結している。
「いや、特になにも。たまたまだよ」
奥のテーブルで、あやうく理子はコーヒーを噴きそうになった。
「…………え、たまたま?」
「そう、悪いかな」
「い、いや、別に……ただ急にいらっしゃらなくなったものですから」
「変なマスターだねえ。なにか理由がなくちゃいけないのかい? 来ても来なくても、自由じゃないの」
それからしばらく、田中は小山内にこれまでのことをぽつぽつと話しはじめた。
田中が「クレール」を訪れるようになったのは、定年退職後まもなくのことである。仕事を辞めた田中は毎日家にいることになったが、田中の妻は引き続きパートに出ていた。妻は、パートが休みである水曜日の午前中、田中に家を空けるように頼んだ。これまでも家中の掃除を水曜日にまとめてしていたからだ。
「ずっと働きづめで、趣味という趣味もないしねえ。とりあえず家を出たのはいいんだけど、なにしていいのか分からなくてね。なんとなく入ったのよ。ここに」
それから田中は水曜日の午前中に「クレール」に来るのが習慣となった。手持ち無沙汰で、読み慣れない漫画雑誌を読み始めた。二時間程度を「クレール」で潰したあと、花好きの妻の機嫌をとるために、近くの花屋「フローラ」に立ち寄った。思いのほか妻が喜んでくれたので、毎週違う花を選ぶのが楽しみになった。これも習慣となった。
「……で、なんで来なくなったんだっけ。あ、そうそう、思い出した」
5月20日の水曜日、田中が家を出て「クレール」に向かっていると、いつも通る狭い道がたまたま工事中で通行できなくなっていた。迂回した道沿いに別の喫茶店があり、なんとなくそこに入った。そこでも「クレール」にいるときと同じように『アーベント』を読んでいた。工事はすぐに終わったが、新しい店に新鮮味を覚え、しばらくはそこで水曜日の午前中を過ごしていた。
静かに話を聞いていた小山内が田中に尋ねる。
「……じゃあまたうちにいらしたのは? またなんとなく?」
「ああ、いやいや。こっちの方がコーヒー美味しいから」
田中は小山内を見てニッコリと笑った。意表を突かれた小山内は
「あ、ああ、ありがとうございます」
と言うのが精一杯だった。
理子が立ち上がって、カウンターの方へ歩いた。
「あの、私、お花屋さんに行ってきます。心配してると思うので」
驚いて理子の方を振り返った田中に、小山内がことの経緯を簡単に説明した。
「ああ、そうだったの。僕の気まぐれで、見ず知らずのお嬢さんにまで心配かけてたなんて知らなかったよ。済まなかったね」
「……いえ、私たちが勝手に……」
「花屋にもあとで寄るから大丈夫だよ。やっぱり花買って帰らないと女房の機嫌が悪くてね。バラの花束でも買ってこうか」
田中はおどけたように舌を出して見せた。
(続く)
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