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「おばあさんが朝早く外出した理由……ご本人の言葉を信じるなら、それは夢にご主人が現れたことと関係があるはずです」


 理子の補足説明を聞いた大道寺が分析の口火を切る。理子の正面に座る友香も、首を斜め上に傾けて、独自に考えを巡らせているようだ。


「田畑さんのおじいちゃん…あ、田畑茂夫たばたしげおさんっていうんですが、夢でなにか言ったんでしょうか」

「理子さん、夢の具体的な内容は聞いてないんですか?」

「うん、おばあちゃん、詳しく話してくれなかったんだ」

「外出する理由になるような言葉……うーん、このまま家にいちゃダメだ、とか? そんなこと言うはずないか……直後に地震でもあったなら別ですけどね」

「…………僕は」


 十分に熟慮したあとだと分かる重々しい声に、理子と友香がそろって大道寺の方を向く。


「おじいさんが夢に出てきて、というのが気になっています」

「……どういうことですか、先生?」

「一つの可能性ですが、のではないでしょうか」


 哲学を専攻する教員の口から発せられた怪しい心霊話に、さすがの理子と友香もぽかんと口を開けてしまった。


「大道寺先生……今日は珍しくオカルトっぽい感じですね」

「ははは、いやいや、そうではありません」

「?」

「言い方が極端で誤解を招いたかもしれませんが。僕が言いたいのは、他人の眼には徘徊はいかいと映ったとしても、本人にはちゃんとした理由があったのでは、ということです」

「え、それが霊とどう関係があるんですか?」

「もし霊が誰かに取り憑いて、なんらかの理由にもとづいてそのひとを動かしたとしたら、霊に動かされた当人にとっても、その行動には理由があったことになります」

「……先生、すみません、まだよく分かりません」

「日本語で霊という単語が入ると、急に胡散臭い話に思われてしまうのですが……つまり、私たちが歩いたり、話したり、考えたりするとき……なんでもいいのですが、その際に、、という哲学的な問題です」


 大道寺と理子が話しているあいだずっと無言だった友香が、なにかに気づいたのか、はっきりした声で議論に参入する。


「それってとか、ですか?」

「あ、そうか」


 友香の発言のおかげで、理子も大道寺が言わんとしていることを理解した。フロイトが創始した精神分析によれば、意識の後景に潜む「無意識」が行動の本当の動因であるとされる。自分自身を十分に意識しているはずの私を動かしているのは、私が意識の俎上そじょうに載せることのできない「なにか」なのだ。


 精神分析では、夢の内容も無意識の願望によって説明される。


(……そう言えば、今朝の夢……先生と友ちゃんに霊の話を否定されたけど……本当は私自身がおばあちゃんの話を信じてなかったってことなのかな……)


「無意識もそうですね。ほかにもこの考え方には色々なバリエーションがあります……たとえば、僕たちが話しているもそうです」

「言語の問題ですか」

「ええ。創作の現場などで、自分はオリジナルな言語活動をしていると豪語するひとでも、日本語なら日本語という、同じ言語を使用しています。『自分だけの表現』などというものはありません……仮にそんなものがあったとしても、それはのです」

「なるほど……私たちは自分が生まれる前から存在している言語を話しているんですもんね。私が話しているとき、私は……」

「そういうことです。如月きさらぎさん、こんなときハイデガーだったらなんて言いますか?」


 大道寺の突然の振りに慌てるどころか、友香の眼はむしろ喜びで大きく広がったように見えた。軽く深呼吸した友香は、まるで世界の秘密を口にするかのようなおごそかな声で言った。


Dieディー Spracheシュプラーヘ sprichtシュプリヒト.――『言葉が語る』、と言うはずです」


 私の思考はすべて、言語によって織りなされている。だが、私が言葉を操っているのではない。言語の体系に絡め取られている私は、言語それ自身が語る際の媒体メディアにすぎないのだ。私は自分の口を言語に貸している、と言ってもよい。


「先生……そうすると田畑さんの霊の話も、という解釈なのでしょうか」

「さすが東雲しののめさん、理解が早いですね。お二人はソクラテスの神霊ダイモーンのことはご存知ですか?」


 二人が静かにうなずく。理子も友香も古代哲学が専門ではないが、哲学専攻の学生だから哲学史の有名なエピソードは知っている。


 ソクラテスはしばしば、自分は頭のなかの神霊ダイモーンの声に従っていると語っていたのだ。


「……じゃあ、田畑さんの場合も、おじいさんが神霊ダイモーンのようになにかを吹き込んだ……」

「そこなんですが」

「?」

「ソクラテスの神霊ダイモーンは、なにかをやめるようにいさめることはあっても、なにかをするように勧めることはなかったようなのです」

「……外出しろ、とは言わないってことですか?」

「はは、そうなんです…………やはり僕の推測は間違っていたかもしれません。慣れないことを考えるもんじゃありませんね」


 狐につままれたような顔の理子と友香に、大道寺は申し訳なさそうな苦笑いを見せる。


(続く)

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