補講 理子メモ「哲学と霊」

 英語のspiritスピリット、ドイツ語のGeistガイスト、フランス語のespritエスプリのように、多くの西洋語では「霊」と「精神」を意味する単語が同じである。「霊」という語がオカルト的な響きをもってしまう日本語では、逆に「霊的なもの」を正しく捉えるのは難しいのかもしれない。


 天文学や解剖学をはじめとする科学的業績を積んだスウェーデンの科学者エマヌエル・スウェーデンボリ(1688-1772)は、晩年にさまざまな心霊現象を経験するようになり、霊的世界との交流の記録を全八巻からなる大部の書物『天界の秘義』(1749-1756)で明らかにした。


 数多く報告されているスウェーデンボリの心霊体験のなかに、次のようなものがある。


 とあるオランダ公使の未亡人が、夫が生前注文したという銀製食器の未払い代金の支払いを金属細工師から督促された。几帳面な性格だった夫が支払いを済ませていないはずはないと確信しながらも、未亡人は夫の遺品のなかに代金の領収書を見つけることができなかった。請求金額が大きく、困り果てた未亡人は、特殊な才能をもつと有名だったスウェーデンボリに、霊界の夫に会って話を聞いてきてくれるように依頼する。


 数日後、亡き夫の霊と語り合ってきたというスウェーデンボリは、支払いは彼が亡くなる七ヶ月前におこなわれていると言って、未亡人の自宅の戸棚の、隠された引き出しの存在を教えた。彼女が確かめてみると、その秘密の引き出しには、オランダ国家に関する機密書類とともに、くだんの領収書も収められていた。


 スウェーデンボリの能力と霊的存在をめぐる議論に関心を抱いた若きカントは、スウェーデンボリに手紙を書いたものの、返事は得られなかった。のちに周囲から公の意見表明を求められたカントは、スウェーデンボリを批判する『視霊者の夢』(1766年)を出版する。


 一般に、カントの前批判期と批判期を架橋する重要な著作と考えられている『視霊者の夢』は、スウェーデンボリの霊界物語の荒唐無稽さを一笑に付しながらも、同時に、形而上学の霊魂論をも同種の「夢」として捨て去るという二重の構造をもっている。


 理性は自分になにができないのかを知らなければならない――このカントの着想は、一見するとオカルト的な外観をもつ小著『視霊者の夢』から、徹底的に理性の「批判」をおこなう大著『純粋理性批判』にまで、まっすぐに続いているのである。

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