夏季研究課題 カブトムシの観察

1

 お盆休みで帰省中の蒸し暑い午後。冷房の利いた部屋にいても額にうっすら汗を感じるのは、家庭用エアコンの馬力をはるかにしのぐ今年の異常な暑さのせいだけではない。


 カントのテクストと格闘している東雲理子しののめりこは、二人の女の子に囲まれて激しい質問攻めにあっていた。


「これ、なんの本?」

「うーん……これは、ね……」

「こっちは?」

「えーと……なんて言ったらいいのかなあ」


 理子の幼なじみである田畑康介たばたこうすけの双子の娘・香菜かな紗菜さなである。そろそろ小学校に上がる年頃だろうか。おかっぱ頭におそろいの青い水玉のワンピースを着ていて、理子の理性ではまったく二人の見分けがつかない。


(……会うたびに区別がつかなくなってるような……うーん、無理だ……理子の理は無理の理だったよ……)


「ダメダメ、二人とも。理子ちゃんの勉強の邪魔しちゃ」


 ソファに座る理子を両側から攻め立てる二人に、ダイニングで理子の母・良子りょうことよもやま話をしていた康介が見かねて注意する。隣では康介の妻の佐江さえが、穏やかな表情を浮かべて目を細めている。


 康介は理子の五歳年上で、小学校の集団登校で一緒に学校に連れて行ってもらっていた近所の「お兄さん」である。大手電機メーカーに就職後、ほどなくして結婚し、香菜と紗菜の双子をもうけた。生まれたころから知っている理子にとって、二人は、血縁こそないものの、目に入れても痛くない姪っ子のような存在である。


 そんな二人の質問に真摯しんしに向き合いたいのはやまやまなのだが、就学前の子どもに、難解で知られるカントの『純粋理性批判』の意義を得得とくとくと説いて聞かせるほど、「女子院生」の理子も世間ずれしているわけではない。


 二人に囲まれて困惑していると、双子の「姉」の香菜が、理子がメモ書き用に開いているパソコンの画面を「あ!」と言って指さした。夏の盛りだからか、ブラウザに自動で表示される広告にクワガタムシの写真が映っている。地元のキャンプ用品店の広告のようだ。


「カブトムシ!」


 嬉しそうにはしゃぐ香菜を見て、「妹」の紗菜も小さな身体を乗り出し、クワガタムシの写真に釘づけになった。


「カブトムシっていうの?」

「そう。知ってるもん」

「香菜すごい!」


(……ん?……そのひとね、本名はクワガタムシっていうんだよ……)


「あのね、香菜ちゃん……それカブトムシじゃなくて……」

「あ! 理子ちゃん! ちょっと」


 突然の康介の大声に、理子と双子がそろってダイニングの方を向いた。見ると康介が理子に手招きをしている。双子の興味はすぐにまた「カブトムシ」の写真に戻り、ああだこうだと言い合っている。


 理子が静かにソファを立って近づくと、康介が軽く両手を合わせて小さな声で言う。


「ごめんね。なんか最近、お姉ちゃんぶりたいみたいでさ」

「香菜ちゃん? そっか、双子でもそうなんだね」

「紗菜は紗菜で、妙に出し抜こうとするときがあって」

「じゃあ、なにも言わない方がいいかな」

「うーん、うまく香菜を立てながら間違いが直せれば一番いいんだけど」

「そっかあ。お父さんも色々と大変なんだ」


 康介と佐江が顔を見合わせて苦笑いする。理子がソファに戻るのと入れ替わりに、佐江が双子に声をかけて、双子がタタタッとダイニングに走る。いつのまにか良子が冷蔵庫からスイカを出して、サクッ、タン、と小気味よく包丁を通していた。


「理子、あんたも食べる? 難しいことばっか考えてると、糖分足りなくなるんじゃない?」

「うー……それもそうだね……ん?」


 ふとパソコンの画面に目をやると、メールアプリに受信通知が入っていた。指導教員の大道寺哲だいどうじてつからのメールである。件名を見ると、九月の個人面談の日程を確認する内容のようだ。


(……困ったときの大道寺先生か……よし、ダメ元で相談してみよう)


(続く)


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