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 本当は真相に気がついているのではないか、という理子の指摘に、大道寺はまばたきを数回しただけで、なにも答えなかった。


 田畑美紀たばたみきの来訪があった翌日、理子は母の良子りょうこに頼まれて田畑家に向かった。良子の実家から送られてきたブドウのおすそ分けに行ったのだ。


 インターフォンを鳴らすと、玄関に出てきたのは房枝ふさえだった。理子は少し驚いたが、用件を伝えてブドウの小箱を手渡した。帰ろうとした理子の背中に声をかけてきたのは、房枝の方だった。


「理子ちゃん、このあいだはごめんなさいね」


 芯の通った房枝の声に、理子はふたたび驚きを強くした。家のなかに房枝以外の家族がいるかどうかは分からなかった。そして前日から残っていた違和感は、続く房枝の説明でわけなく氷解ひょうかいしていった。


「あの朝ね、おじいちゃんが通っていたデイサービスセンターに行きたかったのよ。考えてみたら、あんな早くにバスなんて走ってないわよねえ……でも居ても立ってもいられなくて」


 房枝が最初に家からいなくなった日、房枝の夢に夫の茂夫しげおが出てきたのは事実だった。詳しい夢の内容は覚えていない。だが茂夫が亡くなって以来なかったことだったから、そこになんらかの「虫の知らせ」を感じた房枝は、ふと、夫が生前お世話になっていたデイサービスセンターにお礼の挨拶に行くことを思い立った。


 茂夫の夢を見たことがきっかけであり、年齢のこともあるから、話しても心配されるだけと思い、美紀に気づかれないように出かけることにした。最初の日は慌ててバスの時間を間違え、失敗してしまったが、後日、美紀が買い物に出ている機会を捉えて家を出た。


 デイサービスセンターで、茂夫の世話をしてくれていた介護福祉士と面会した。仕事に迷惑がかからないよう、お礼の挨拶と夫の思い出話を少しして帰るつもりだったが、逆に介護福祉士の口から思いも寄らない話を聞いたのだった。


 茂夫はおけ屋敷での真実を知っていながら、『ドロロンちゃん』の一件をめぐる房枝と美紀の気持ちのすれ違いを解消できなかったことをずっと悔やんでいた。茂夫が二人のあいだをうまく調整していれば、房枝がまた『ドロロンちゃん』の続きを描くことも十分にありえたからだ。誰にも話してないことだけど、と断って、介護福祉士に秘密を打ち明けた茂夫は、何十年も経ってしまったが、いつか二人の心のわだかまりが解けてくれたら、と希望を語ったという。


 もしかすると、茂夫はその和解の場面を、現実に夢に見たのかもしれなかった。


 房枝の話を聞きながら、理子は「父は絶対に母には言わないって約束してくれた」という美紀の言葉を心のなかで反芻はんすうしていた。


(……おじいちゃん、約束しっかり守ってたんだ……約束は守りつつ、でも本当のことをおばあちゃんに伝えることができた……)


 実は房枝が『ドロロンちゃん』を描くのをやめたのは、美紀にお化け屋敷のことを思い出させないようにとの配慮からではなかった。


 かわいいお化けの女の子・ドロロンちゃんのモデルは、幼い美紀自身だった。絵本作家としての仕事が忙しくなり、娘と過ごす時間が減ってしまった房枝にとって、『ドロロンちゃん』を描いている時間はほかでもなく「娘と過ごす時間」だったのだ。


「……でもね、あのとき娘が急にいなくなっちゃって、私、はっとしたのよ……お化けってことは、一度死んじゃってるわけよねえ……娘をお化けにするなんて、どうしてそんな恐ろしいこと考えたのかしらって、娘に申し訳なくて……もうあれは描けなくなっちゃったのよ」


 おそらく房枝の本当の気持ちは、房枝本人が美紀に伝えることになるだろう。



「そういうことでしたか」


 理子の説明を黙って聞いていた大道寺が、理子の眼をまっすぐ見つめて言う。


「すみません、先に結論をお話すればよかったんですが……」

「いえ、ああいう思考実験も悪いものではありません。それも哲学の訓練ですから」


 ニコリと微笑む大道寺に、理子もほっとした表情を見せた。


「なんだかんだ言って、最終的におじいさんの長年の希望がかなえられてよかったです」

「僕もそう思います」

「でも、現実と夢か……結局、私はいま起きてるんでしょうか? それとも寝てるんでしょうかね」


 笑って言った理子が、自分のほおを思いきりつねってみる。


「い、痛い……」

「ははは。夢のなかで頬をつねって、痛いだけかもしれませんよ。それに」

「?」

「現実と夢を区別するよりも、ほうが素敵だと思います……田畑さんのおじいさんのように」

「現実のなかで夢を見る?」

「はい。あるとき『希望とはなにか』と問われたアリストテレスは答えました。希望とは『目覚めている者が見る夢だ』と」

「希望、か……」


 夕暮れが近づいてきた研究室の外では、まだ鳴き足りないと言わんばかりに蝉の声が響いている。二人はしばらくのあいだ言葉を交わすことなく、じっとそれに耳を傾けていた。


(夏季集中講義 終わり)

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