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残暑の厳しい九月半ば。「残暑」といっても、盛夏と比べてなんら
ひんやりと適度に冷房の利いた大道寺の研究室で、理子はゆったりとした三人掛けソファーに腰を下ろしている。理子が大道寺の個人研究室に足を踏み入れるのは、今日がはじめてである。
(……しっかし……大学の先生の部屋って、なんでこんなに本があるのかな……)
理子は感嘆の眼差しで大道寺の部屋を見回した。今年の六月に着任したばかりの大道寺だが、研究室の壁には天井すれすれの高さの鉄製本棚が設置されていて、洋書・和書を問わず、厚さもバラバラな書籍がびっしりと詰めこまれている。
秋学期から正式に新しい指導教員となる大道寺との面談の日である。集中講義の折に指示されていた先行研究についての報告は、さきほど無事に終えることができた。
「例の……おばあさんの話、なにか進展はありましたか?」
ほっとして一息ついていた理子に大道寺が尋ねる。やはり大道寺もその後の消息が気になっていたらしい。
「ええ……実は色々ありまして……」
理子は、
「おじいさんの霊の
「ええ……むしろ田畑さんも、それで納得されたようで……」
「なるほど」
返事をした大道寺は、リクライニングチェアの背もたれに体重をかけ、腕を組みながら無言で考えにふけっていた。少しして、自分のなかでなんらかの整理がついたのか、理子の方を向き直って言う。
「こういうのはどうでしょう。おじいさんの霊は夢を見ていた。房枝さんと美紀さんがおたがいの本当の気持ちを伝えて理解しあう夢を」
「え」
「そして、おじいさんの霊に取り
なぜか微笑みながら発せられた大道寺の言葉に、理子の全神経が動きを止める。
「先生……このまえ以上に、おっしゃっていることが分かりません……」
「
「現実と夢、ですか……普通はそう考えますよね。私はいま現実に起きていて、夢を見ているわけじゃありませんし」
「『
「悪しき霊」(genius malignus)とは、17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトが提示した議論である。
真理の探究のために、学問は絶対的に確実な基礎のうえに築かれなければならないと考えたデカルトは、ほんのわずかでも疑いを差し挟む余地のあるものをすべて「
あらゆるものに不信の眼差しを向けるデカルトの方法論は徹底している。私が感覚で捉える外の世界はすべて疑わしい。しばしば眼は見間違え、耳は聞き間違える。嗅覚や触覚といったそのほかの感覚も、つねに
もっと言えば、神と同等の力をもった「悪しき霊」が私を
こうした徹底的な懐疑の末に、デカルトは気づく。すべてが「偽」であると私が考えるとき、そう考えている「私」自身は必然的に存在していなければならない。でなければ、「疑う」という営為がそもそも成り立たないからだ。
私は思考するからこそ存在している――「我思う、ゆえに我あり」(cogito ergo sum)というこの真理を、デカルトは哲学の第一原理として定めることになる。「思考するもの」としての「
「そっか……現実が現実で、夢が夢だって言えるのは、現実に対して夢があり、夢に対して現実があるから……」
「そのとおりです。夢は、覚めてはじめて夢だったと分かる。逆に言えば、現実そのもの、夢そのものは、それ自体では区別できません」
「いま私は現実に大道寺先生と話していると思ってますけど、話している夢を見ている可能性を論理的に否定することができない……本当はベッドで寝てるかもしれないってことですね」
「ふふふ……明日あたり、大道寺に夢で変な話をされたってこぼしてるかもしれませんよ」
大道寺の顔がわずかにほころぶ。
「えっと、そこまではいいとして……田畑さんのおばあさんはおじいさんの霊が見た夢を見ていた、でしたっけ」
「はい。おばあさんは娘さんの秘密を知りませんので、自分自身の夢でその秘密を言うことはできません。秘密を知っている別の誰かの夢を、代わりに見たのです」
「つまり田畑さんのおばあさんは、おじいさんの霊に取り憑かれて、おじいさんの霊が見ていた夢に出てくる自分と同じように『現実』に行動してしまった……おじいさんの霊の夢のなかでは、おばあさんは真実を知っていて、それを娘さんに伝えて二人は和解する?……うー、頭がグルグルします」
ふたたび理子が頭を抱える。とりあえず自分の意図が理子に伝わったことが分かり、大道寺の顔がまたかすかに緩んだ。優しさを帯びながらどことなく切なさを
(……理屈としては成り立ちそうだけど……やっぱり無理してるような……)
「…………先生」
「なんでしょう」
「本当は……真相に気づいていらっしゃるんじゃないですか?」
(続く)
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