7

 良子りょうこのあとに続いて、理子がこっそりとリビングを出てから五分後。


「うわっ!」


 ふたたびリビングのソファに戻った理子は、二階から聞こえてきた良子の叫び声を聞いて一人ほくそ笑んだ。


 階段をドタドタと駆け下りてくる音が響いて、リビングのドアがぱっと開く。


「理子! なにこれ! 心臓止まるかと思ったじゃない……」

「ごめんごめん。ほんとに増えるのも面白いかと思って」


 良子の手には、理子が子どもの頃に買ってもらった黒猫のぬいぐるみが握られていた。良子が一階のトイレに行っているすきに忍び足で二階に上った理子は、自分の部屋からぬいぐるみを持ち出し、良子の寝室の布団のなかに隠しておいたのだ。


「……あんた、いい年して……冗談は哲学だけにしときなさいよ」

「冗談は哲学だけ? 哲学はいつも本気だよ」

「…………あー、もういいわ、ふぁぁあ」


 呆れた心がそのまま口から放たれたようなあくびを残して、良子がリビングを出ていく。

 

(……ここまでしなくてもよかったかな…………ま、たまにはいっか)


「ねー、キタロー」


 理子は専用のベッドで眠るキタローに手を伸ばした。今度は嫌われないように、キタローのしなやかな背中に優しく手をわせる。あーかわいいと思いながら、首元から尻尾の付け根までを三往復ほど撫でた頃だろうか、理子の指にほんのかすかな異物感が走った。


(ん?……なんだろう)


 理子は尻尾の付け根からそう離れていないあたりの毛を、両手でそっと分けてみた。そこにあったのは、乾いたばかりと思われる小さなカサブタだった。


(……ああ……だから帰ってこなかったのかぁ……様子が変なのもきっとそのせいだ)


 名誉の負傷かどうかは分からないが、外でほかの猫と喧嘩をした傷跡なのだろう。喧嘩のあと、キタローは物置かどこかに隠れて、傷が癒えるのをじっと待っていたのかもしれない。とりあえず生傷が乾き、さすがにお腹も空いて、ようやく家に帰ってきたとはいえ、本調子と言えるほどの元気が戻らないのは自然なことに違いない。


「もう、キタにゃん…………ケンカしちゃダメっていつも言ってるじゃん。あんたは毛針けばりも出ないんだしさぁ」


 卵を持ち上げるような形をした理子の手が、キタローの狭い額をぞわぞわと撫でる。丸くなっているキタローは、眼を閉じたまま前脚をぐぐぐっと伸ばして、舌で鼻先を一、二度ペロペロしたあと、また動かなくなった。


(第三講 終わり)

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る