第3講 うちのネコ、どこのネコ?
1
自室でカントのテクストを読みながら、指に挟んでくるくる回すペンの回転が止まらない。気がつくと、一度辞書で引いた単語をまたすぐに調べてしまっている。
このところ理子は落ち着かない日々を送っていた。数日前の母との電話が気になっていたのである。
実家で飼っている猫のキタローが、外に出かけたきり帰ってこないというのだ。
理子の実家はのどかな郊外の一軒家で、周りには小規模だが畑も広がっている。車の往来もそう多いわけではない。だから
キタローがやってきたのは、理子が小学五年生のときである。夕方、学校から帰ってくると、母が玄関に並べていたパンジーのプランターの隣に、小さな黒い塊がちょこんと座っていた。静かに近づいてよく見ると、漆黒の毛玉のなかに黄色い眼が光った。
「ネコちゃん!」
理子の声に驚いて、黒猫はぴょんと後ろにジャンプした。少し離れたところで理子の方を振り返り、じーっと理子を見つめている。理子が近づくと、また逃げる。だが、見えなくなるほど遠くに行くわけではない。追っては逃げ、逃げては追い、猫と理子の小競り合いはいつまでも続きそうだった。
理子は猫と離れたくなかったが、勝手に家に入れるわけにもいかないし、そもそも手ぶらでは捕まえられそうもない。次第に外も暗くなってきた。理子は後ろ髪を引かれながら、泣く泣く家に帰った。遠ざかっていく理子を黒猫はいつまでも見つめていた。
翌朝、眠い目をこすりながら二階から降りてきた理子は、驚きと喜びで「えええ!」と叫んだ。椅子に座る理子の父の太もものうえに、昨日の黒猫がちんまりと丸まっていたのだ。
「えええ、ネコちゃん、どうしたの?」
理子が首のあたりをそーっと撫でると、猫はほんの少し身震いして、気持ちよさそうにまた眠ってしまった。
「昨日お父さんがね……酔って帰ってきて、うちに入れちゃったのよ」
母の
「理子、お世話できる?」
「できるできるできる。かわいー」
名前は理子の一存で「キタロー」に決まった。当時、再放送していた某アニメの主人公からとったものだ。眼がキランとしているのが似ているらしい。本人の目玉なのか、親父の目玉の方なのかは分からないが。
ただ、このときの理子は、飼い猫に日本を代表する哲学者と同じ名前をつけてしまったことをまだ知らない。京都学派の創始者・
それから大学で一人暮らしを始めるまで、キタローはずっと理子の生活の大切な一部だった。キタローを飼い始めてからもう12年以上が経っている。考えたくはなかったが、理子の頭には最悪の想像すらよぎった。
(……ネコって、どっか行っちゃうって言うもんね……うーん……)
そのときテーブルのうえのスマートフォンが鳴動した。母からの電話である。
(続く)
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