2

 近所の田畑家のおばあちゃんがいなくなった――「おばあちゃん」の娘にあたる田畑美紀たばたみきから、日課のランニング中にそのことを聞いた理子は、前回よりも少し遠回りのコースを走ることに決めた。


 ガードレールに守られた広い歩道に別れを告げ、最寄り駅の正面まで続く商店街のアーケードに入る。始発電車はもう動いている時間だが、駅前の商店街にはまだ人気ひとけがない。


(……少しでもひとがいそうなところかなと思ったけど……時間が早いから関係なかったか……それにしても心配だなぁ、おばあちゃん)


 もちろん理子も、田畑さんの「おばあちゃん」、田畑房枝たばたふさえのことは知っている。


 しかも、単に近所のおばあちゃんとして知っているだけではない。かわいいおけの女の子が主人公の絵本『ドロロンちゃん』の作者としてもよく知っている。田畑房枝は、数十年のキャリアと何十冊もの作品を誇る、著名な絵本作家なのだ。


 田畑美紀の息子や娘と幼なじみだった縁もあって、理子も田畑房枝の絵本には昔から親しんできた。学校の図書室に何冊も絵本が置かれている「先生」が近くに住んでいる――その事実に、小学生の理子は鼻が高かった。といっても、理子が生まれ育った町では多くのひとが理子と同じ気持ちだったのだが。


 現在では田畑房枝も80歳を過ぎていて、新しい絵本が刊行されたという話はずいぶん前から聞いていない。「おじいちゃん」にあたる夫の茂夫しげおが今年の春に他界したばかりだが、そろそろ気持ちの整理もついて、穏やかな余生を過ごしている頃ではないだろうか。


(……『ドロロンちゃん』シリーズ、ほんと好きだったなあ……昔の絵本なのに、みんなに人気あったよね……)


 駅前の商店街は、ほとんどの店がまだシャッターを下ろしたままだ。商店街を走り抜けた理子は、駅には入らずに右に旋回する。いつもより速いペースで走っているから、さすがに息が上がってきた。


(……ドロロンちゃんだったら、すぐにおばあちゃん見つけられるのにな……)


 神出鬼没のドロロンちゃんは瞬間移動もお手の物だから、困っている人や寂しい人、泣いている人のもとにすぐに飛んでいけるのだ。


 駅周辺を過ぎてしまうと、人が向かいそうな場所はほかには思い当たらない。それでも、もう少しだけ遠回りして家に帰ろうか、と思ったときだった。


 バス停のベンチに、ぽつりと座っている人がいた。田畑美紀と別れたあとは誰にも会わずに走ってきたから、早朝の風景に溶け込んだ人影が妙に新鮮に映る。


(……田畑さんのおばあちゃんだ……)


 驚かさないように速度を緩めて、数メートル前で走るのをやめた。恐る恐る声をかけた理子に、田畑房枝は、なにかを諦めたかのような、あるいは誤魔化すかのような曖昧な微笑みを向けた。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る