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「それは、いわゆる徘徊はいかいというやつでしょうか」


 大道寺哲だいどうじてつの言葉はすぐに、シャンシャンシャンシャン……というクマゼミのけたたましい声にかき消されてしまった。以前はこの地域にほとんどいなかった蝉だが、近ごろでは普通に鳴き声を聞くようになっている。


 お盆明けの月曜日。実家から戻ってきた理子は、10月から新しい指導教員になる大道寺の集中講義に出席していた。狭い演習室の長机の正面では、学部4年生の如月友香きさらぎともかが興味深そうな表情で理子を見つめている。


 理子の本来の指導教員である柳井則男やないのりお教授は、秋学期から研究休暇サバティカルを取る予定で、代わりに新任教員の大道寺が理子の指導を担当することになっている。


 6月という中途半端な時期に着任した大道寺は、今年の春学期は授業を担当していない。その年度の時間割は、すでに前年度のうちに確定しているからだ。


 しかし、本来は授業負担がないにもかかわらず、大道寺は自分から「集中講義」を開講することを申し出た。「タダ飯」を食うことに心苦しさを感じたからなのか、少しでも早く学生を指導したいという気持ちの表れなのかは、本人に聞かなければ分からない。


 集中講義とは、1回90分の授業を15週にかけておこなう正規の科目を凝縮し、1日4時限の授業を計4日弱で集中的に実施するものだ。


 授業ではドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの著書『カントと形而上学の問題』を輪読している。出席者が理子と友香の二人だけだったこともあり、結果的に大道寺が二人の読書会に「乗っかる」形になっている。納涼会で酔いつぶれた友香が口走った「理子と毎日読書会がしたい」という欲望が、はからずもこの4日間は実現したことになる。


「……そのおばあちゃんって……えっと、言いづらいですけど、認知症の傾向はあったんですか?」


 友香が口を開く。口調こそ遠慮がちだが、理子から与えられた「謎」に取り組みたいという気概がありありと顔に表れている。


「私も、いつも実家にいるわけじゃないからねえ……最近の田畑さんのおばあちゃんの様子は知らないんだ」

「でも、理子さん、おばあちゃん見つけて、少しは会話したんですよね? どんな感じだったんですか?」

「……うーん……それがね……」


 友香と大道寺が同時に視線を理子に向ける。


「……こんな朝早くにどうしたんですかって聞いたんだけど……、って言ったんだよね、おばあちゃん」

「亡くなったおじいちゃん、ですか」

「多分、そうだと思う。……?……」


 友香と大道寺が今度は顔を見合わせる。


東雲しののめさん、一体どうしたんですか。霊なんて、そんな非合理的な話を信じちゃだめですよ。哲学とは真逆の振る舞いです」

「理子さん……理子さんの理は、理性の理じゃなかったんですか?」


 理子の発言に、二人が集中砲火を浴びせる。


「あはは、そうですよね……って、笑っちゃいけないけど……霊だなんて……おかしいですよね、そんなの……」



「……理子!……ちょっと! 理子!」

「……む……ん……あ…おかあ……さん……」

「今日、学校じゃないの? 起きないと遅れるわよ!」

「……あ……そうだ……大道寺センセイの……集中コウギ……」

「ほら、早くしなさいよ。いつまでも寝ぼけてないで」

「……ふぁああい」


(……いまのは……ふああ……夢?……なんかすごくリアルだったような……)


 大道寺の集中講義の初回に実家から直接向かうつもりの理子は、早朝のランニングがたたったのか、完全に寝坊してしまった。実家から大学までは電車で一時間半ほどかかる。三十分以内に出なければ間に合わない。


 厳しい条件下で、理性を最大限に働かせて効率的に身支度をしたつもりの理子だったが、客観的に見れば、ドタバタとあわただしく暴れ回った挙げ句、突っかけたパンプスで全速力で飛び出して、盛大に転びそうになった女子院生の姿がそこにはあった。


(続く)

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