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東雲しののめさん、今日はお手伝い、ありがとうございました」


 大道寺がニコニコしながら理子の座る席までやってきた。明らかになにかを聞きたそうな顔をしている。


「そうそう、あれ、どうなりました。例の喫茶店の」

「あ……あれ、ですね……先生がおっしゃったとおり、漫画とか全然関係なくて……」


 理子は顛末てんまつを大道寺に話した。もっとも、顛末というほどの顛末はなかった、というのが顛末だったのだが。


「なるほど……なんとなくそんな気がしていました」

「先生、さすがのお見通しでした」


 理子がペコリと頭を下げた。完全降伏である。


「あ、いや嘘です。半分は冗談だったんですよ。東雲さんの話だったので、勝手にカントに結びつけてみただけなんです」


 今度は大道寺が照れくさそうに頭を下げた。


「……そう……なんですか……あ、それより先生、英語すごいですね」

「はは、長くイギリスにいただけで」

「いらっしゃっただけであそこまでは……」

 

 大道寺が少し真面目な表情に戻る。


「まあ、哲学をやるのに語学力が必要なのは当然です。少なくとも外国の哲学を研究しているひとは」

「……そうですよね……私、がんばります」

「東雲さんの場合はまずドイツ語ですね……あ、僕いま指導教員みたいなこと言ってます?」


 今度はまたニコリと微笑んだ。大道寺の素早い顔の変化に、理子もつられて笑ってしまった。


「あ、指導教員ついでに。勉強用に差し上げましょう」


 そう言うと大道寺は、勝手に理子のペンを取ると、講演原稿の紙の余白にサラサラとなにかを書き始めた。


「では、研究がんばってください」

「あ、ありがとうございます」


 書き終えた大道寺はさっと振り返って、講演者の方にすたすたと戻っていった。



 その晩、自宅で夕食を終えた理子は、勉強を始めるまえに今日の講演原稿を取り出し、大道寺が余白に書いてくれた文章を日本語に直してみた。古いドイツ語で、現代の正書法と多少違っていたが、読むのに支障はなかった。


 Die Ros ist ohn warum ; sie blühet, weil sie blühet,

 Sie acht nicht ihrer selbst, fragt nicht, ob man sie siehet.


 バラは〈なぜ〉なしにある。バラは咲く、咲くから咲く。

 バラは自分に気をとめないし、ひとが自分を見ているかどうかを問うこともない。


 たしかにバラが咲くことに「理由」はないかもしれない。だが、理子は思う。ひとはどうしても「理由」を求めてしまう。眼の前のバラが、どうしてこんなに綺麗に、優雅に咲いているのかを考え、考え抜いたあとだからこそ、ということに深く感動するのではないか。


 ふと理子は、丸山が言っていた「大道寺さんは本当にすごいひとだから」という言葉を思い出し、パソコンで「大道寺哲」を検索してみた。検索結果はたったの45件で、しかもすべて大道寺本人とは関係なさそうだった。


 もしかして、と思い、今度は「Daidoji Tetsu」と入れてみた。理子の眼が丸くなった。なんと20,000件がヒットした。すべて外国語のページである。


 そのうちの「Tetsu Daidoji is...」という文章で始まるページを開いてみた。そこには大道寺が若くして画期的なアリストテレス解釈を提示し、世界中で高い評価を受けている旨のことが書かれていた。


(……なにこれ……先生、日本では無名なのに、世界の哲学界では超有名人ってこと?……)


 ふたたび、丸山が言っていた「大道寺さんは本当にすごいひとだから」という言葉が頭のなかを通り過ぎていった。「すごいひと」は別にして、ともかく自分ががんばらないと、と思い、理子はカントのテクストに向かった。


(第二講 終わり)

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