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 早京大学大学院の哲学専攻に代々伝わる謎の決まりごと――それが「浅田の掟」である。過去に在籍した浅田なる人物が残したとされる、哲学専攻の学生たちの暗黙のルールだ。


 当然ながら公的なものではないし、文章の形でまとまっているわけでもない。先輩から後輩へ口伝くでんで継承されてきたもので、細かい文言は世代によって微妙に異なるが、基本的な内容は同じである。


「……丸山さん、なんですか、『浅田の掟』って……」

「そっか、東雲しののめさんは知らないよね」


 大学院からの進学で事情を知らない理子に、丸山が手短に説明する。


「浅田の掟」にいわく――



一、卒業論文は年限を守って提出すべし。


一、修士論文で外国語の先行研究を引用すべからず。


一、博士論文を専攻に提出すべからず。



「卒論は年限を守るべし、っていうのは分かる気がします」

「そうそう。就職するなら当然だし、大学院に進学する場合でも、留年はするなってこと」

「次の、修論の先行研究っていうのは?」


 相変わらず苦虫を潰したような顔をしている丸山にかわって、理子の同期の男子が説明する。


「浅田さんは、外国の二次文献なんか気にせずに、自由に論じるべきだって言ったんだよ」


 それに対して、この男子と言い合っていた別の学生が反論する。


「だからさ、先行研究を無視した『自由』なんて、ただの横暴じゃないの?」


 瞬間的な沈黙が生まれ、場がふたたび剣呑けんのんな様子を帯びる。さすがに手が出ることはないだろうが、より激しい口論に発展しかねない一触即発の雰囲気に、丸山があいだに入って仲裁を試みる。


「まあまあ、二人とも落ち着いて。今日はここまでにしておこう。納涼会の話はほぼまとまったんでしょ?」

「……はい、そっちは…………あ、東雲さんには、テーブルのセッティングをお願いします」

「うん、分かった。ありがとう」


 彼らも彼らなりに、会話に参加しづらい理子に気をつかっているようだった。


(……自分だけ外部進学で気が引けてるのは事実だけど……かえって壁を作ってるのはこっちの方なのかもな……あ、今はそれどころじゃないか……)


 しばらくして冷静さを取り戻した同期の男子たちは、一人、また一人と共同研究室を出て行った。


「……はー、びっくりしました……一時はどうなるかと」


 丸山と二人になり、緊張の糸が切れた理子が大きなため息をもらす。


「まさか、今の学生さんも気にしてるとは思わなかったな」

「丸山さんの頃からあったんですか? その『浅田の掟』って」

「僕らのときよりも、もっと昔からじゃないかなあ」

「どうして、こんなルールが残ってるんでしょう?」

「……さあ。僕も先輩から言われただけで、本当のところはまったく知らないんだ」


 今年で30歳になる丸山の時代からあったということは、「浅田の掟」は少なくとも10年は哲学専攻に伝わっているものなのだろう。しかも、もっと古い可能性すらある。


「もしかして東雲さん……ここの歴史に興味ある?」


 丸山が意味深な笑みを見せる。どう答えてよいのか瞬時に判断できない理子に、丸山は手招きして、理子を自分のデスクの方へ案内した。


「ほら、ここ。もしかすると『浅田の掟』のことも少し分かるかも……多分」

「この棚ですか?」


 丸山の専用デスクの後方には、理子の身長よりも高い銀色のキャビネットが置かれている。丸山がガチャという音を立ててドアを開く。


「うわっ、すごい」


 思わず声を出した理子の眼の前には、簡易製本された論文の山がキャビネットいっぱいに積み上げられていた。


(続く)

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