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「え? ほかに黒猫? いないわよ」


 母の良子りょうこはお昼のうどんの薬味になるネギを刻む手を止めて、理子の方を振り向いた。なにおかしなことを、と明らかに怪訝けげんな顔をしている。


「そうだよね……いたら話題にしてるもんね。気のせいかなあ……」

「変なこと言わないでよ」


 良子がふたたびネギの刻み作業に戻る。


「でもお母さんが知らないだけかもよ。近所に別の黒猫がいたりして」


 聞こえているのか聞こえていないのか、良子は理子に背を向けたままザクザクと包丁を動かし続けている。


「ねえ、お母さん」

「なに」

「キタローだと思ってて、実は別のネコだったりして。ほかの黒猫とすり替わってるの」

「そんな馬鹿なことないでしょ」

「違う感じがするって言ってたじゃん。じゃん」


 良子の返事はない。さきほどのキタローと同じく、諦めの境地に入ったようだった。


「お母さん」

「なに、しつこいわね」


 良子が右手に包丁を掴んだまま振り返って、責めるような眼を理子に向ける。


「そんなにネギらなくない?」


 まな板の上では、二人前のうどんの薬味には多すぎる量のネギが輪切りにされていた。



 うどんをずるりと平らげて食休みをしている理子には見向きもせず、キタローがのしのしとリビングを歩いている。お腹が満たされて窓の外をぼーっと眺めていると、また黒い影が外にちらついて見えた気がした。


「んん?」


 食後で億劫おっくうだったが、理子はよいしょと立ち上がって窓のそばに寄ってみた。近視の眼を凝らして見ると、いま黒い影が通り過ぎたあたりに、小さな長方形の物体がなにやら光っているように見えた。


「……あれ、なんだろ?…………ねえ、お母さん」

「ん?」


 良子はダイニングテーブルに朝刊を広げて、クロスワードパズルを解いている。


「なにあれ?…………鏡?」

「そうそう。車出すときにさあ、表の道が見えづらいでしょ。自転車ほんと危ないのよ」


 理子の家の正面の道路は狭く、塀もあるせいで左右の交通がよく見えない。猛烈なスピードを出して走る自転車や、逆に道の端をスローペースで歩くお年寄りなど、良子は車で外出する際に何度も冷や汗をかく思いをしていた。


「昨日届いたからさ、今朝とりあえずつけてみたんだけど。どうかな?」

「どうかなって……家のなかのネコ映してどうすんのよ!」

「えっ、そうなの? 角度がおかしいんだ。あとで買い物行くときに、運転席から見て調整しようと思ってたのよ。早速直さないと」

「もう〜、紛らわしいことしないでよ……」


 理子はすっかり気が抜けて、ソファーにどすんと座りこんだ。キタローは窓際で姿勢を正し、静かに外の景色を眺めている。ネコの一番高貴な姿だ、と理子はほれぼれとキタローの横顔に見惚みとれた。


(…………でも別のネコだってのは理屈としては成り立つよね……よし、仕返ししよう)


 ふふふ、と理子はひそかに口元を緩めた。


(続く)

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