5

「そもそもさあ、お母さん」

「なに」


 良子りょうこはまだダイニングで新聞を広げている。手の動きは止まっているから、クロスワードパズルはもう解き終わったのかもしれない。


「帰ってきたキタローがなんでキタローだと思ったの」

「あんた、なに言ってるの」


 良子が新聞から顔を上げ、ソファーに座る理子をあからさまに心配そうな眼で見つめた。


とかって、どういうことなんだろう?」

「どうしちゃったのよ」

「考えてみてよ、お母さん」


 娘の話が長くなりそうなのを悟ったのか、良子は仕方なくお茶の入った湯呑みを持って、理子のいるソファーの方へやってきた。


「あそこにキタローがいますね」

「いるよ」


 キタローは窓際で左手をペロペロと舐めてから、その手でごしごしと顔をぬぐっている。


「ああやって顔を洗っていると、毛が抜けるじゃない」

「ああやらなくても刻一刻と抜けるけどね。掃除が大変よ。ほら、あんたも。取った方がいいんじゃない?」


 理子の着ている七分袖の白いブラウスにも、至るところにキタローの細い毛がくっついている。あれだけしつこく撫でていたら当然だろう。


「いまキタローにh1エイチイチ、h2、h3からh1000までの1000本の毛が生えているとします。あ、hはhairのhね」

「は?」


 良子がぽかんと口を開けた。理子はお構いなしに続ける。


「いま、h1だけが抜けたキタローをk1ケーイチと定義し、h2だけが抜けたキタローをk2と順に定義していって、h1000だけが抜けたk1000までのキタローを定義します。いい?」

「?」

「それらとは別に、h1からh1000までの毛がすべて揃っているキタローがいるから、合計1001匹のキタローがいることになる」

「だからどうしたのよ」

「この1001匹のキタローはすべてネコです」

「なんで? 全部キタローじゃない。ネコよ」

「全然でしょ。k1にはh2が生えてるのに、k2からはh2が抜けてるのよ。じゃん」


 偉そうに胸を張る理子の隣で、はあぁ、と良子が大きなため息をついた。


「……理子の理はいつから理屈の理になったのよ。しかも屁がつく」

「屁理屈じゃないよ。理性を用いて厳密に考えてるだけ」

「ああ……哲学なんてやらせるんじゃなかったわ」


 良子は大げさに首を前に倒してうなだれた。その足下を、十分に顔を洗い終えたとおぼしきキタローが黄色い眼をキラキラさせながら通り過ぎ、理子から見下ろせる位置まで来ると、ぴょんと勢いよくソファーに飛び乗った。


「あなたはkケーいくつのキタローさん?」


 理子の太ももに手をかけたknケーエヌのキタローが、にゃあと大きく鳴いた。


(続く)

 

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