10
「なにかおかしいことがありましたか?」
しばしの沈黙のあと、大道寺がそう口を開いた。理子は意を決して、辞書の謎を大道寺にぶつけてみることにした。
「……あの辞書なんですが」
「はい」
「アンチノミーというか……あってはいけない場所にあったんです」
「アンチノミー? カントのですか?」
「まあ、カント先生を持ち出す必要はないんですが……あまりに不思議だったので驚いてしまって」
「『哲学大辞典』のことですか? 閲覧室で使っていた?」
「……はい。私が返した辞書が、またすぐ地下に戻ってて……」
「すぐに?」
「はい」
大道寺は腕を組んで軽く「うーん」と
「僕はこれを図書館に持ち込んで勉強してたんですよ」
「え」
大道寺はテーブルの上にある共同研究室の所蔵図書の貸出ノートを開いて、理子に示した。そこにはたしかに「六月十五日・『哲学大辞典』・大道寺哲(一時持ち出し)」と書かれていた。
「使わないときはうしろの台に置いていたんですが、気がつくとなくなっていて。職員さんか誰かが返しちゃったのかなと思って、また一階に取りに行ったんですよ」
大道寺が図書館地下一階の閲覧室にやってきたのは、ちょうど理子が参考図書コーナーに『哲学大辞典』を返しに行っているときだった。戻ってきた理子は、大道寺が共同研究室から持ち込んだ『哲学大辞典』を無意識に使っていただけでなく、自分が返し忘れたのかと思って勝手に戻しに行ってしまったのだ。
「そしたら、同じ辞書が二冊あるはずが一冊だけだったので、僕のほかに誰かが使ってるのかなと思ったんです」
大道寺が向かった参考図書コーナーの棚には、当然、理子が最初に返した『哲学大辞典』が収まっていた。大道寺は仕方なくそれを持って地下一階に戻った。そのあいだ理子はというと、大道寺が持ち込んだ辞書を持ったまま、一階の休憩ルームでのんびりお茶を
「
同じ辞書が二冊あった……。謎の答えのあまりのあっけなさに、恥ずかしいやら情けないやら、理子の顔は湯気が立つほどに
「……あ、ああ! そうだったんですね……なんだ、私はてっきり……」
「てっきり?」
「あっ」
言えなかった。てっきりストーカーだと思ってました、などと言えるはずがなかった。
「それで最後に図書館を出るときに、僕が使った図書館の辞書と、棚にあったここの辞書とを入れ替えてきたんですよ」
この大道寺の最後の説明を、もう理子は聞いていなかった。
(……私どんだけ自意識過剰なんだ……あーもう、恥ずかしい……)
「……あ、でも!」
理子は劣勢を挽回するかのように――もっとも理子の
「どうして先生なのにそんな辞書使ってたんですか? こういう辞書って、基本的なことを調べるために使うんじゃないんですか」
「ああ、長くイギリスにいたせいで、日本語の哲学用語がよく分かってないんですよ。秋学期から授業も持つでしょ。それで
(……日本語の哲学用語が分からない?……この先生、すごいのかすごくないのか、どっちなんだろう……いや、すごいのか……)
「……そう……なんですね……」
「そうなんですよ。reasonが理性なのはまだ許すとして、understandingが悟性でしょ。全然分からないですよね。『理解する能力』くらいの意味なのに」
「カントは特に難しいです」
「そうそう、カント。悟性もそうだけど、ほかにもありますよね……あ」
大道寺が少しだけ真剣な表情に戻った。
「それで、
理子も軽く姿勢を正し、大道寺の眼を見つめながら、ほかならぬ自分自身を納得させるように、はっきりと言った。
「カントのアンチノミーについて書きたいと思っています」
こうして、長いようで短い理子の院生時代が、本当の意味で始まったのである。
(第一講 終わり)
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