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「なにかおかしいことがありましたか?」


 しばしの沈黙のあと、大道寺がそう口を開いた。理子は意を決して、辞書の謎を大道寺にぶつけてみることにした。


「……あの辞書なんですが」

「はい」

「アンチノミーというか……あってはいけない場所にあったんです」

「アンチノミー? カントのですか?」

「まあ、カント先生を持ち出す必要はないんですが……あまりに不思議だったので驚いてしまって」

「『哲学大辞典』のことですか? 閲覧室で使っていた?」

「……はい。私が返した辞書が、またすぐ地下に戻ってて……」

「すぐに?」

「はい」


 大道寺は腕を組んで軽く「うーん」とうなってから、共同研究室の壁の書架の、下から二段目を人差し指でツンツンと指差した。理子の眼は驚きで丸くなった。そこには図書館にあったのと同じ『哲学大辞典』が収まっていたのだ。


「僕はこれを図書館に持ち込んで勉強してたんですよ」

「え」


 大道寺はテーブルの上にある共同研究室の所蔵図書の貸出ノートを開いて、理子に示した。そこにはたしかに「六月十五日・『哲学大辞典』・大道寺哲(一時持ち出し)」と書かれていた。


「使わないときはうしろの台に置いていたんですが、気がつくとなくなっていて。職員さんか誰かが返しちゃったのかなと思って、また一階に取りに行ったんですよ」


 大道寺が図書館地下一階の閲覧室にやってきたのは、ちょうど理子が参考図書コーナーに『哲学大辞典』を返しに行っているときだった。戻ってきた理子は、大道寺が共同研究室から持ち込んだ『哲学大辞典』を無意識に使っていただけでなく、自分が返し忘れたのかと思って勝手に戻しに行ってしまったのだ。


「そしたら、同じ辞書が二冊あるはずが一冊だけだったので、僕のほかに誰かが使ってるのかなと思ったんです」


 大道寺が向かった参考図書コーナーの棚には、当然、理子が最初に返した『哲学大辞典』が収まっていた。大道寺は仕方なくそれを持って地下一階に戻った。そのあいだ理子はというと、大道寺が持ち込んだ辞書を持ったまま、一階の休憩ルームでのんびりお茶をすすっていた。お茶を飲み終えた理子は、元々『哲学大辞典』が収めてあった棚に、共同研究室の方の『哲学大辞典』を置いて、地下一階に戻ったのだった。


東雲しののめさんが『哲学大辞典』を凝視ぎょうししていたので、同じ辞書を使いたいのかなと思ったんですが、そのあとで、もしかして僕の辞書を返したのはこのひとなのかも、と思って聞いたんですよ。『あなたでしたか』って」


 同じ辞書が二冊あった……。謎の答えのあまりのあっけなさに、恥ずかしいやら情けないやら、理子の顔は湯気が立つほどに火照ほてってきた。アンチノミーなんて大げさな言葉を使って、カント先生にも申し訳ない気持ちで一杯だった。しかしこのまま黙っているわけにもいかず、できるかぎりの平静さをよそおって口を開いた。


「……あ、ああ! そうだったんですね……なんだ、私はてっきり……」

「てっきり?」

「あっ」


 言えなかった。てっきりストーカーだと思ってました、などと言えるはずがなかった。


「それで最後に図書館を出るときに、僕が使った図書館の辞書と、棚にあったここの辞書とを入れ替えてきたんですよ」


 この大道寺の最後の説明を、もう理子は聞いていなかった。


(……私どんだけ自意識過剰なんだ……あーもう、恥ずかしい……)


「……あ、でも!」


 理子は劣勢を挽回するかのように――もっとも理子の狼狽ろうばいは大道寺にはまったく伝わっていないのだが――付け加えた。


「どうして先生なのにそんな辞書使ってたんですか? こういう辞書って、基本的なことを調べるために使うんじゃないんですか」

「ああ、長くイギリスにいたせいで、日本語の哲学用語がよく分かってないんですよ。秋学期から授業も持つでしょ。それで柳井やない先生から、辞書かなんかでざっと確認しておいたらって勧められたんですよ」


(……日本語の哲学用語が分からない?……この先生、すごいのかすごくないのか、どっちなんだろう……いや、すごいのか……)


「……そう……なんですね……」

「そうなんですよ。reasonが理性なのはまだ許すとして、understandingが悟性でしょ。全然分からないですよね。『理解する能力』くらいの意味なのに」

「カントは特に難しいです」

「そうそう、カント。悟性もそうだけど、ほかにもありますよね……あ」


 大道寺が少しだけ真剣な表情に戻った。


「それで、東雲しののめさん。結局、修論のテーマはどうするおつもりですか」


 理子も軽く姿勢を正し、大道寺の眼を見つめながら、ほかならぬ自分自身を納得させるように、はっきりと言った。


「カントのアンチノミーについて書きたいと思っています」


 こうして、長いようで短い理子の院生時代が、本当の意味で始まったのである。


                  

(第一講 終わり)




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