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 マルティン・ハイデガー。友香が卒論のテーマに選んだのは、現代哲学の動向に決定的かつ深刻な影響を及ぼした20世紀ドイツの哲学者である。現代を生きた哲学者だが、プラトン、カント、ヘーゲルと比肩する、西洋哲学史の超重要人物と言ってよい。


 一般に「カントしょ」と呼ばれる著作『カントと形而上学の問題』(1929年)を著したハイデガーは、カントを研究する理子にとっても気になる存在である。が、理子はこの難解な書物にまだ挑戦できていない。


「……ハイデガーなんだ……すごいね。すごいね、っていうのも変だけど」

東雲しののめさんは……カントでしたよね。カントも難しいじゃないですか」

「ハイデガーのなにについて書くの? 卒論」

「えっと……絞りきれてはいないんですが、やっぱり『存在と時間』について書きたいと思ってます」


『存在と時間』(1927年)は、存在をめぐるこれまでの西洋哲学のアプローチをすべて「解体」し、新しい仕方で「存在の意味への問い」に迫ったハイデガーの主著である。


 実はこの本は書物としては未完成である。予告されていた第二部はついに公刊されなかった。


 哲学は言葉を操る。というよりむしろ、哲学は言葉をまとって姿を現す。ほとんどの場合、哲学はみずからが書物となって、全体として一つの「体系」を提示する。


 だから主著が未完というのは、哲学史上きわめて異例なことだ。それほどハイデガーは特異な哲学者だと言える。


如月きさらぎさんって、ドイツ語は得意?」

「いえ、まだまだ全然です」

「ちなみに『存在と時間』は……」

「一応『存在と時間』は原書で読んだんですけど」


 理子は眼を丸くした。


(……学部生で、あんな分厚い哲学書をドイツ語で読めるんだ……)


 眼の前の美少女を感嘆の眼差しで見つめる理子の頭に、ある考えが浮かんだ。学年としては後輩になる友香に対して、恐る恐る口を開く。


「……あのさ、もし如月さんがよかったら、でいいんだけど」

「はい」

「……一緒に読書会しない?」


 読書会は参加者が一つのテクストを輪読するもので、ほかの学生と仲良くなるきっかけになることが多い。


「えっ! いいんですか!?」


 まるで好きな相手に告白するかのようだった理子の申し出を、友香の即答が快く受け止める。


「誘ってもらって嬉しいです。哲学ってあんまり女子いなくて……東雲さんとなら楽しく勉強できそうです」

「ほんとにいいの?」

「はい、ぜひぜひ。あ、テクストはなににしましょうね。楽しみ〜」


 友香は明らかに楽しそうな笑顔を見せている。この子は哲学の勉強が心から好きなんだ、と理子は尊敬の念をこめて思う。


「えっと……私が選んでもいいかな……」

「候補あります?」

「……『カント書』でもいい?」

「『カント書』! 一緒に読みたいです!」


 カントを論じるハイデガー。理子と友香の関心にこれほどうまく合致する選択肢はないだろう。早速二人は今週から、両方とも授業が入っていない金曜日の夕方に「カント書」の読書会を始めることにした。


「あ、せっかくだからさ……初回はさっき大道寺先生が言ってた喫茶店に行ってみない? たしか、お洒落な庭があるって。チーズケーキが有名な」

「はい、そうしましょう。4時半待ち合わせでいいですか」

「うん。私行ったことないんだけど、場所すぐ分かるかな」

「あ、大丈夫だと思いますよ。けっこう目立つと思います」



 同じ週の金曜17時。理子は瀟洒しょうしゃな喫茶店の窓際の席に座っている。


 いま理子が感じている複雑な気持ちは、はじめてのものではない。


 16時半に待ち合わせていたはずの友香が、またも姿を見せないのだ。


 大道寺の言っていたとおり、窓から眺めるお洒落な庭は、ただの喫茶店には不釣り合いとも言えるほどの工夫が凝らしてある。和風庭園の趣を基調としながら、西洋風のテイストも各所に散りばめられている。


 大道寺から聞いたのは「お洒落な庭がある」という少ない情報だったが、早京大学病院の近くで庭が有名な喫茶店を調べたら、すぐに見つけることができた。


(……如月さん……なんで今日も来ないんだろう……もしかして私、嫌われてるのかな……)


 不安と憤慨が混ざったような思いで、とりあえず注文したアールグレイを飲んでいると、テーブルに置いたスマートフォンが振動した。画面には「如月友香」の文字が表示されている。


 ぱっとスマートフォンを取って耳に押し当てた理子に飛び込んできたのは、またも友香の怒ったような泣いているかのような声だった。


「東雲さんですか? 私、ずっと待ってるんですけど!」


(続く)

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