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「やっはり、へいぎが……あいはいはっはんへふほ」
「落ち着いて食べなよ、
意外なほど拍子抜けする理由に、友香は興奮を抑えきれないようだ。ドーナツを頬張りながら話しているから、いくら理子が理性を駆使しても、なにを言っているのかさっぱり分からない。
(……この子、こんなにかわいいのに、ちょっと抜けてるよね……まあ、そういうところもかわいいのか……)
反対に、友香にとっての駅前のサタドは、ここ早大西駅前の「サタド」である。
「やっぱり、定義が曖昧だったんですよ」
アイスティーで口を
「ごめんごめん。思いこみってこわいね」
「まあ、確認しなかった私も私ですし……当たり前にこっちだと思ってました」
南郷五丁目から早京大学の東門までは歩いて10分ほどだが、早大西駅は西門のすぐ近くにある。理子は路線の都合で南郷五丁目を最寄り駅にしているが、大半の早大生にとって、駅前のサタドと言えば早大西駅前の「サタド」なのだ。
大学院からここに通い始めた理子は、早大生の「当たり前」をまだよく知らない。
「ちゃんと南郷五丁目駅前のサタドって言えばよかったんだ。あ、近いからここの方がいいのか」
「でもこっちだと
「類と種差による定義」(definitio per genus et differentiam)とは、アリストテレス以来の古典的な定義方法で、ある対象が属する最も近い類(最近類)と、その類に含まれる他の種との違い(種差)によって、当該の対象を一通りに定義するものだ。
「この場合はサタドが類だよね。『駅前の』が種差になると思ってたんだけど、十分には違わなかったのかあ」
「そういうことですね。『南郷五丁目』とか『早大西』とかをつければ一つに定まる」
「早大西駅前にもう一軒サタドがあったら?」
「さらに差を付け足さないといけませんね。牛丼屋の隣の、とか、いつも混んでる方の、とか」
ふーん、と理子は腕を組んだ。当たり前に思っていることをあらためて言葉で表現するのは難しい。私たちは普通、物事に慣れるにしたがって言葉を省いていくからだ。私たちの生活と言葉との関わりを明らかにするのも哲学の大きな役割である。
「まあ、どんなものでもこうやって厳密に定義してあげればいいんだ」
「そうですね……でも」
「?」
「これでは存在は定義できません」
(……存在は定義できない?…………如月さんって、もしかして……)
理子は自分の予感を確かめるために友香に尋ねる。
「如月さんって四年生だよねえ」
「はい」
「これから卒論でしょ? テーマはもう決まってる?」
「はい。ハイデガーで書きたいと思ってます」
マルティン・ハイデガー。理子はこのドイツ人哲学者の名前と、眼前のショートカットの美少女とのギャップに、しばらく固まっていた。
(続く)
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