8

「やっはり、へいぎが……あいはいはっはんへふほ」

「落ち着いて食べなよ、如月きさらぎさん」


 意外なほど拍子抜けする理由に、友香は興奮を抑えきれないようだ。ドーナツを頬張りながら話しているから、いくら理子が理性を駆使しても、なにを言っているのかさっぱり分からない。


(……この子、こんなにかわいいのに、ちょっと抜けてるよね……まあ、そういうところもかわいいのか……)


 早大西そうだいにし駅前の「サタド」で、理子はいつものオールドファッションを、友香はチョコレートのかかったクルーラーを買った。南郷五丁目の駅を通学に利用している理子は、こっちのにはいままで来たことがない。


 反対に、友香にとってのは、ここ早大西駅前の「サタド」である。


「やっぱり、定義が曖昧だったんですよ」


 アイスティーで口をうるおした友香が、あらためて言う。


「ごめんごめん。思いこみってこわいね」

「まあ、確認しなかった私も私ですし……当たり前にこっちだと思ってました」


 南郷五丁目から早京大学の東門までは歩いて10分ほどだが、早大西駅は西門のすぐ近くにある。理子は路線の都合で南郷五丁目を最寄り駅にしているが、大半の早大生にとって、と言えば早大西駅前の「サタド」なのだ。


 大学院からここに通い始めた理子は、早大生の「当たり前」をまだよく知らない。


「ちゃんと南郷五丁目駅前のサタドって言えばよかったんだ。あ、近いからここの方がいいのか」

「でもこっちだと東雲しののめさん、帰り、遠いですもんね……いずれにしても『最近類さいきんるい種差しゅさ』できちんと定義すればよかったんです」


「類と種差による定義」(definitio per genus et differentiam)とは、アリストテレス以来の古典的な定義方法で、ある対象が属する最も近い類(最近類)と、その類に含まれる他の種との違い(種差)によって、当該の対象を一通りに定義するものだ。


「この場合はサタドが類だよね。『駅前の』が種差になると思ってたんだけど、十分には違わなかったのかあ」

「そういうことですね。『南郷五丁目』とか『早大西』とかをつければ一つに定まる」

「早大西駅前にもう一軒サタドがあったら?」

「さらに差を付け足さないといけませんね。牛丼屋の隣の、とか、いつも混んでる方の、とか」


 ふーん、と理子は腕を組んだ。当たり前に思っていることをあらためて言葉で表現するのは難しい。私たちは普通、物事に慣れるにしたがって言葉を省いていくからだ。私たちの生活と言葉との関わりを明らかにするのも哲学の大きな役割である。


「まあ、どんなものでもこうやって厳密に定義してあげればいいんだ」

「そうですね……でも」

「?」

「これではは定義できません」


(……存在は定義できない?…………如月さんって、もしかして……)


 理子は自分の予感を確かめるために友香に尋ねる。


「如月さんって四年生だよねえ」

「はい」

「これから卒論でしょ? テーマはもう決まってる?」

「はい。ハイデガーで書きたいと思ってます」


 マルティン・ハイデガー。理子はこのドイツ人哲学者の名前と、眼前のショートカットの美少女とのギャップに、しばらく固まっていた。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る