補講 理子メモ「哲学と友」

 現在のエッセー(随筆)の形式を創始したとされるフランスのモラリスト、ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592)は、『エセー』に収められた「友情について」という有名なテクストで、次のアリストテレスの言葉を引いている。


「ああ我が友人たちよ、一人も友人がいない」(Ô mes amys, il n'y a nul amy)。


 アリストテレスは自分には一人も友人がいないと友人たちに言ったというのだが、ディオゲネス・ラエルティオスが伝える元々の言葉は「幾人も友人をもっている人には、一人の友人もいない」(ho philoi, oudeis philos)というものだった。


 このギリシャ語をラテン語に翻訳したアンブロジオ・トラヴェルサリ(1386-1439)が、冒頭の代名詞を誤って間投詞と解釈し、"o amici amicus nemo"と誤訳したことが、モンテーニュの誤解につながっている。


 このアリストテレスの発言は、『ニコマコス倫理学』などで論じられる「愛」(philia)の問題と結びついている。恋愛においても友愛においても、多人数のあいだの愛は存在しない。愛はかならず二人のあいだのものでなくてはならない。


 だとすれば、こうした愛で結ばれた友人は一人しかいないということになる。「友」という単語は複数形を受け入れない。「友」はすでに「友」ではないのだ。


 その意味では、自分には一人も友人がいないのだと「友人」に語ったという、誤訳に基づく解釈も、あながち誤りとは言えない。むしろこの架空の場面は、通常の友人関係と真の友愛との差異を逆説的に際立たせている。

 

 実際、モンテーニュには、『自発的隷従論』で知られるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530-1563)という本当の「友」がいたのだった。


 通常「哲学」と訳されているphilosophiaの語源は、「知(sophia)への愛(philia)」である。しかし、「知」とはなにか、「愛」とはなにか、といった問いには、まったく自明な答えがない。


 知を愛する哲学者は、より多く、より正確に知ろうとする。しかし、哲学が哲学であるためには、哲学者は間違った仕方で知を愛してはならない。だから哲学者は、「愛する」ことがどういうことかを知らなければならない。


 哲学は「知愛」であると同時に「愛知」である。哲学とは、知を愛し、愛を知ろうとする哲学者がその身をもって示す営みを、言葉にしたものである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る