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理子のリセイに軽い違和感が走ったのは、『哲学大辞典』の「悟性」の項目に記された、ジョン・ロックの『人間悟性論』についてのくだりを読んでいるときだった。
(……あれ、この辞書さっき返さなかったっけ……)
そうなのだ。さきほど理子は、入館時に持ち出した本を一度返しに行っている。「参考・禁帯出」のラベルが貼られた『哲学大辞典』は、一階の参考図書コーナーに戻したはずなのだ。
しかし、現代思想や同期についての嫌な記憶を思い出し、その落ち込みをまだ引きずっていた理子は、このとき自分自身への信頼を失っていた。返そうとしたけど、重いから結局あと回しにしたのかもしれない、と思った。『哲学大辞典』以外の本も、それなりの分厚さがあったのだ。
(それにしても、こんなことも分からなくなるなんて、我ながらどうかしてないか……?たかが研究計画ひとつで、頭おかしくなりすぎ)
もちろん、本当に「たかが研究計画」と思ったわけではなかった。むしろ焦りを覚え始めていた。壁の時計に目をやると、ちょうど午後三時になったところだ。柳井との面談まで、もう一時間しかない。
(ずっと座って本読んでるせいかな……気持ちを切り替えた方がいいのかも)
理子は読みかけの「悟性」の項目に急いで目を走らせると、貴重品と『哲学大辞典』を持って、階段の方に向かった。
地下からの階段を上って右手には、新聞や雑誌が置かれたガラス張りの部屋がある。図書館内でこの部屋だけは飲食が可能で、ほかの利用者に迷惑のかからない程度にはおしゃべりもできる。理子は空いていた丸机のうえに『哲学大辞典』を置いて席を確保してから、自動販売機でペットボトルの緑茶を買ってきた。
お茶を飲みながら周囲を見渡すと、理子の斜め前方では、初夏らしいピンクやベージュの軽やかな格好をした女子大生たちがサークルやバイトの話で盛り上がっていた。理子もつい三ヶ月前までは女子大生だったわけで、見た目にはそれほど変わらないはずと思いながら、「女子院生」の自分は彼女たちとはまったく異質な存在であるような気がした。
英央大学時代の友人たちは、卒業後、ほとんどが就職している。理子がお茶を飲んでいるこの時間にも、きっと研修やらなにやらで奮闘しているのだろう。ぼんやりと休憩している宙吊りの時間が、「女子大生」と「社会人」のあいだに浮かんだ理子自身を表しているようだった。
(私も頑張らないと……久しぶりにスカートでも履こうかな……よし、集中するか)
理子は残ったお茶を飲み干し、ペットボトルをゴミ箱に捨ててから、参考図書コーナーに向かい、空いている元の棚に『哲学大辞典』を返した。
面談までの残りわずかな時間、頭をフル回転させようと意気揚々と階段を降り、地下の座席に戻った理子は、驚きのあまりに、あやうくリセイが弾け飛びそうになった。
いま返したはずの『哲学大辞典』が、またも台のうえに戻っていたのだ。
(続く)
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