第2講 バラは「なぜ」なしに咲く

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 六月のある木曜日の午後。東雲しののめ理子は喫茶店「クレール」の店内にいた。


 理子の通う早京大学は、地下鉄・南郷五丁目駅を降り、美しいケヤキが立ち並ぶ南郷通りを歩いて10分ほどのところにある。大通りをはさんで大学東門のちょうど正面に、古本屋「文殊堂もんじゅどう」と喫茶店「クレール」が店を構えている。


 木曜日に理子が出席している授業は、四限に開講されている大学院科目「精読せいどく演習IV」だけである。一般に大学院では授業の履修よりも論文の執筆の方が優先されるから、この四月に修士課程に入学したばかりの理子も、一週間の授業はそう多いわけではない。


 それだけ学生個人の高い自己管理能力が要求される、とも言える。


 四限の授業が始まるのは四時二十分だが、理子はいつも二時には南郷五丁目の駅に着いて、授業のまえに「クレール」で勉強することにしている。最初はコーヒー1杯で二時間も粘っていいものかと悩んだものの、すぐ近くにシアトル系のカフェがあるせいか「クレール」が満席になることは滅多めったになく、もちろん退店をかされることもない。


 いまでは毎週木曜日のこの時間に、サイフォンがたえずコポコポと音を立てるこの店で勉強するのが理子の楽しみになっていた。


「理子ちゃん、ちょっといいかな」


 理子は授業のテクストであるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『哲学探究』のコピーから顔を上げた。声の主は「クレール」のマスター・小山内おさないである。50歳は過ぎていると思われるが、髪は黒々として、顔の血色もよく、年齢不詳の中年男性だ。


 毎週木曜日に欠かさず「クレール」を訪れている理子は、コーヒー1杯でスタンプを押してもらえるカードもいちど溜まったことがあるほどで、すっかり常連の扱いになっている。少し前からマスターの小山内とも言葉を交わすようになっていた。もっとも、理子はいつも勉強をしているから、小山内も気をつかって、注文や給仕のとき以外には積極的に話しかけてくることはない。


「勉強してるところ悪いんだけど」


 テーブルに近づいてきた小山内が、遠慮がちに言った。


「いえ、大体終わったので大丈夫です」

「あ、そう。よかった。実はちょっと相談、ていうか、話を聞いてもらいたいんだよね」

「なんでしょう。私でよければ……」

「うちの常連の田中さんって分かるかな。中折れ帽をかぶった上品なおじさん。たいていカウンターに座ってたんだけど」

「うーん……見たことあるような、ないような」

「そっか。理子ちゃんはいつも木曜日だったっけ。田中さんは水曜日に来てくれる常連さんなんだ」

「そうなんですね。じゃあ見たことないかもです」

「……その田中さんがさ、突然うちに来なくなっちゃったんだよ」


(続く)

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