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 常連の田中が急に店に来なくなった、という小山内おさないの言葉に、理子も顔を曇らせた。


「……突然、ですか……どうしたんでしょうね。ご病気とかじゃなければいいですけど。おいくつなんですか?」

「定年退職して何年か経ったくらいかなあ。いや、元気は元気なんだ」

「?」

「うちには来なくなったんだけど、このあいだ外で見かけたんだ。ピンピンしてた」


 小山内は少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。


「いやね、もちろん、お客さんの自由だからさ。別に来なくなったっていいんだけど。何年もずっと来てたひとが急に来なくなったら、どうしたのかなって思うよね」

「それはそうですよ。私だっていつも買ってるヨーグルトが急にスーパーからなくなったら困りますもん」


 理子はたとえが微妙にずれていると途中で気づいたものの、引き返すことができずに最後まで言い終えてしまった。


「それそれ、本当にそうなんだよ」


 たとえの微妙さは小山内にはまったく関係なかったようで、理子は安堵した。文章であれ会話であれ、日常的に哲学の言葉づかいに触れている理子は、言葉の細かい区別に敏感になっているのだ。


「……えっと、いずれにしても、理由が知りたい、ってことでしょうか。別に来なくなったことを責めるとかじゃなくて」

「そうそう、そういうこと。どうしたんだと思う?」


 うーん、と理子は腕を組んだ。「どうしたんだと思う?」もなにも、理子はその田中というひとのことをなにも知らないのだ。


「……さっき、何年も来てたっておっしゃいましたよね」

「そう、三年くらい前からかな。いつも水曜日の午前中に来てたんだ」

「水曜日だけですか?」

「うん。それで一時間とか、一時間半くらい。お昼には帰ってたよ」

「最後にいらした日、なにか変わった様子はなかったんですか?」

「うーん、その日が最後になるなんて思ってないからさ、あんまり覚えてないんだけど。覚えてないってことは、特に変わったところはなかったんだろうね」


 うーん、と小山内も無意識に理子をまねて腕を組んだ。人懐っこいおじさん顔のおでこには、深い皺が3本刻まれている。


「……えっと、この話をどうして私に?」


 ひとが自分と同じ格好をしていると気になるもので、理子は腕組みをほどいてから小山内に尋ねた。


「いや、まあ、いまはおしゃべりできるような常連さんもそう多くないし。それに理子ちゃん、勉強家だから良い知恵が浮かぶかと思って。哲学だっけ? おじさんには難しくて全然分からないけど」


 小山内は気づかなかったが、一瞬だけ理子の表情に影がさした。なにを勉強してるんですか→哲学です→私には難しくて分かりません、という会話の流れは学部生の頃から何度も経験していたが、いまは哲学専攻の大学院にいて周囲も含めて哲学が当たり前になっているから、こういう思いをするのは久しぶりだった。万人に開かれている哲学が「普通」のひとに難しいと決めつけられると、勝手に壁を作られたような気がして悲しいのだ。


「…………哲学は探偵業じゃありませんよ」

「ふふふ、そうかもしれないけどさ。いいじゃない、ちょっと考えを聞かせてよ。スペシャルティコーヒー、サービスするからさ」


 理子の孤独感をよそに、小山内は妙に楽しそうになっていた。そう、哲学を難しいと言うひとに悪気はまったくないのだ。小山内の明るい雰囲気と「サービス」という言葉で、理子のさっきの気持ちも「よくあること」として心の底に消えていった。


「……え、なんでもいいんですか? コピ・ルアックも?」

「……あ、ああ、うん、言っちゃったもんな。いいよ、いいよ」


 コピ・ルアックはジャコウネコが未消化のまま排泄したコーヒー豆を用いて作る最高級コーヒーで、「クレール」では1杯1500円で提供されている。


「わー、やったー。一度飲んでみたかったんですよね。頑張って理由考えます…………て、もう行かなきゃ」

「あ、そっか、これから授業だっけ」

「はい、来週また来ます。そのときに田中さんのこと、もっと教えてください」


 理子は会計を済ませて小山内に挨拶をしてから、足早に「クレール」をあとにした。


(……理子の理は、理由の理、だったっけ?……ま、いっか)


 理子はジャストのタイミングで青信号に変わった横断歩道を、大学の東門めがけて走り抜けた。


(続く)


 

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