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次の週の木曜日、理子はいつもよりワクワクした気持ちで、しかもいつもより早く喫茶店「クレール」を訪れた。店に突然来なくなったという元常連・田中の情報をマスターの
時間を有効活用するために、四限の授業のテクストであるウィトゲンシュタイン『哲学探究』の予習はすでに済ませてある。
そもそも理子は「クレール」に勉強をしに来ていたわけだから、勉強しないのであれば本末転倒のはずである。だが、田中の謎に取り
「……理子ちゃん、待ってたよ」
ニコニコした小山内が水をお盆に載せて、理子が好んで座る奥のテーブルにやってきた。この時間帯の「クレール」はいつも空いているが、運良く今日は理子のほかに誰も客がいない。
「一週間待ち遠しかったです……あ、今日は『ピック』にしようかな」
「クレール」のブレンドコーヒーには、「カロー」「クール」「ピック」「トレフル」の4種類がある。それぞれ、トランプのスートであるダイヤ・ハート・スペード・クローバーを意味するフランス語だ。
(……スペードは「槍」だもんね……田中さんの謎を一刺しにせねば……)
「了解。ちょっと待ってて。あとで話しても大丈夫かな?」
「はい。今日はもう予習してきてますから」
鼻腔をくすぐる豆の芳醇な香りと、コポコポという陽気なサイフォンの音がしばし店内に広がったあと、小山内が理子のテーブルに「ピック・ブレンド」を運んできた。
淹れたての熱いコーヒーを理子が口に含むのを待ってから、小山内が本題に入る。
「……で、先週話した田中さんのことなんだけど」
「はい、色々聞かせてください。来なくなった理由を考えるために」
「なにを教えればいいかな。このあいだも言ったけど、最後に来た日も特に変わった様子はなかったんだよね」
「その最後にいらっしゃったのはいつなんですか?」
「うん、それはレジのジャーナルで調べておいた。5月13日。それまでは毎週水曜日、三年くらい、ずっと来てくれてたんだ」
レジの「ジャーナル」とは客に渡すレシートの控えのようなもので、レシートと同じくロール用紙に続けて印字され、レジのなかに収められている。
「ということは一ヶ月半くらい前ですか。へー、あとから調べて分かるものなんですね」
「田中さんはいつも『裏メニュー』だったから」
「…………『裏メニュー』?」
小山内の説明はこうだ。もともと「クレール」の4種類のブレンドコーヒーには、さらにそれぞれの浅煎りと深煎りの区別があり、合計8パターンで用意されていた。それが1年ほどまえ――小山内が面倒になったという理由で――すべて中煎りの焙煎具合に統一された。だが「ピック・ブレンド」の深煎りを愛飲していた田中の希望で、「裏メニュー」という形で渋味の強いブレンドを田中だけに提供していた、という。
「だから、田中さんはいつも『ピック・ドゥブル』。ほかに出してたお客さんいないから、すぐ分かるのよ」
「私も来週から『ピック・ドゥブル』にします」
「理子ちゃん、それは勘弁してよ」
そう言った小山内は軽く微笑んだが、割と本気の表情であった。
「じゃあ最後の日もいつもと同じコーヒーを飲んでたんですね。コーヒーの味が変わったとか」
「それはない。俺は人間としては不真面目だけど、コーヒーに関しては真面目だから。味が変わるようなことは絶対にない」
小山内は控えめに胸を張るような仕草を見せた。美味しいものを出すのがプロなのではない。美味しいものをいつも同じ味で出すのがプロなのだ。無論コーヒーだから、年によって豆の出来が異なることはあるだろうが。
「……そしたら、お店での様子は? マスターと喋ったり?」
「いや、俺とは一言二言くらい。そうそう、これも思い出したんだけど、いつも雑誌を読んでたのよ。ほら、あれ」
小山内が指差した四段ほどのラックには、漫画雑誌や週刊誌が表紙を見せて陳列されている。
「たしか『アーベント』っていう漫画雑誌を読んでたはず」
「漫画雑誌ですか。ちょっと見てもいいですか」
すっと席を立った理子は、雑誌のラックから昨日出たばかりの『アーベント』の最新号を持ってきた。パラパラめくってみると、たしかに老年男性の読者がいても不思議ではない劇画調の絵柄が目に飛び込んでくる。
巻末の目次に目をとめたところで、理子の理性に10アンペアほどの電流が走った。
そこには「『アーベント』は毎週水曜日発売!」という文字がゴシック体で踊っていたのだ。
「……マスター、私、分かっちゃいました」
「え、なにが?」
「だから、これですよ、漫画」
「漫画がどうしたのよ」
「……きっと田中さんは毎週この雑誌を読みに来てたんですよ」
「雑誌を読むために? じゃあなんで来なくなったのよ」
もったいぶるつもりはなかったが、理子は思わず深い息を吸ってから言った。
「……きっと、読んでた漫画の連載が終わったんです」
(続く)
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