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「えっ、ほんと?」

「はい」

「みんなの名前と、研究対象が覚えられないんだけど」


 納涼会の準備をめぐって一生懸命に議論している同期をよそに、理子と丸山はコソコソと話を続けている。たしかに、似たような男子が四人いて、それぞれの名前と専門を覚えるのはそう容易なことではない。


 哲学の大学院生「らしい」と言えば「らしい」が、なんと全員が黒縁の眼鏡をかけているのだ。四人ともに微妙にお洒落なのも、かえって覚えづらさを助長させている。


「誰が、誰を研究してるんだっけ」


 文学や哲学の領域では、一人の作家や哲学者を対象にして論文を書く「モノグラフィー」が一般的である。


 学会等で初対面のひとに会ったときには、「私は◯◯を研究しています」とか「私は◯◯の専門です」といった具合に、◯◯に人名を入れて自分を紹介することが多い。最も簡略化された「私は◯◯です」という自己紹介も頻繁に行われている。


「私はプラトンです。はじめまして」

「私はアリストテレスです。どうも」


 といった珍妙な会話は、哲学の研究者が集まる場では普通の光景なのだ。


 逆に言えば、そのひとが「誰か」だけではなく、「誰を」研究しているのかも、研究者を認識するうえでのきわめて重要な情報となってくる。


「えーと、一番右にいるのはたしか……」

「秋田くんです。その隣が春山くん。テーブルの向こう側にいるのが、夏川くんと冬木くん」

「春山、夏川、秋田、冬木、ね」

「そうです。四人揃うと、四季折々の田舎みたいなんですよ」

「あ、ほんとだ」

「本人たちには言えないですけど」


 理子と丸山は顔を見合わせてクスクスと笑う。二人の脳内のスクリーンには、新緑あふれる田園風景、小川のせせらぎと蝉の声の夏模様、真っ赤に燃える紅葉の宴、そして一面に広がる純白の雪景色が、代わる代わる映し出されていた。


「で、春山くんが……」

「フッサールです」

「夏川くんは?」

「ニーチェ。秋田くんがアーレントで、冬木くんはフォイエルバッハです」

「……ダメだ、まったく覚えられる自信がない」

「覚え方があるんですよ、丸山さん」


 理子は左手を開き、たまたま見つけたんですけどね、と言いながら、右の人差し指でHの文字を書く。


HaruyamaはるやまHusserlフッサールなんです」

「あっ」


 その時点で、丸山もすぐに合点がいったようだ。同じ要領で、NatsukawaなつかわNietzscheニーチェAkitaあきたArendtアーレントFuyukiふゆきFeuerbachフォイエルバッハとなる。


「すごいなあ東雲しののめさん。よく気づいたね」

「ふふふ……でも顔は丸山さんに覚えていただくしかありません」


 丸山は「やれやれ」と苦笑しながら、少し離れたところにいる理子の同期の男子たちを眺めた。彼らはいまも納涼会の準備について熱心に相談をしているようだった。


 が、どうも様子がおかしい。先ほどよりも声が大きくなっていて、議論が熱を帯びすぎているような雰囲気だ。


 バン、と誰かがテーブルを叩いた音が響いて、思わず理子はびくっと肩を震わせた。


(続く)

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