哲学研究室の午後

8

「僕ね、秋からお休みに入るんだ」

「……え？」

「それで東雲（しののめ）さんの指導教員を代わってもらおうと思ってね」

「……え！」

『哲学大辞典』のアンチノミーからまだ復活していない理子の理性を、柳井の言葉が容赦なく襲った。理子の指導教員を交代する、というのだ。

「先生そんな〜。私を見捨てるなんて」

「そういうわけじゃないんだけど。本当に申し訳ない」

　柳井は両手を顔の前でぺしゃっと合わせて、ぺこりと頭を下げた。頭頂部はやや薄くなっているものの、穏やかで渋い柳井の雰囲気は、実は女子学生に人気がある。

　早京大学大学院人文学研究科教授・柳井則男（やないのりお）の研究室は、和書・洋書を問わず、古今東西の哲学書であふれている。

　柳井の専門は、カントを端緒とする「ドイツ観念論」と呼ばれる潮流である。フランス革命の動乱を背景に、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった綺羅星のごとき哲学者たちを輩出した、ドイツ哲学の花形である。

「お休みって、サバティカルですか？」

「そうそう。急に秋から取れることになって」

「サバティカル」とは「研究休暇制度」のことだ。

　一般的に大学教員の仕事は、講義をはじめとした校務（各種委員、オープンキャンパスなどの広報、入試等も含む）からなり、これらには時間的拘束がある。

　だが大学教員は同時に「研究者」でもある。多くの大学は「裁量労働制」を取っているから、大学教員は校務のない自由時間に自分の研究をおこなうことになる。これには時間的拘束がないかわりに、基本的に休みというものがない。土日祝日も関係なく仕事をしている「研究の虫」のようなひとさえいる。反対に、校務が多すぎて、授業のある学期中はほとんど研究時間を取れない教員も少なくない。

　そのため、一年なり半年のあいだ、教員の校務を免除し研究に専念してもらう期間として、サバティカルの制度があるのだ。

　ただし、サバティカルにはいわゆる「順番」がある。大学によってまちまちだが、サバティカルを取れるのは一年に数人であり、「順番」が回ってくるのは早くて五年に一度、長い場合には十五年に一度くらいではないだろうか。

　柳井はおよそ十年ぶり、教員になって二回目のサバティカルである。当初、サバティカルを取る予定だった教員の事情が変わり、同じくサバティカルを希望していた柳井が急遽、秋学期からサバティカルを取れることになったのだ。

「で、修論のテーマは決まったの？」

「……それが……カントで書きたいと思ったんですけど……」

「あ、そうなの？　それじゃ悪いことしちゃったな……フランス現代思想なら踏み込んだ指導はできないけど、カントならね」

「…………」

「まあ、メールでも相談は受け付けるし。いずれにしても修論の審査には入ると思うからさ」

　修士課程では、基本的に二年間で修士論文を書き上げる。修士論文は、指導教員を含む複数の教員によって審査される。いま理子は一年生だから、順調に修士論文を提出できれば、再来年の二月に「口頭試問」を受けることになるだろう。

「新しい指導教員はどなたになるんでしょう……」

「ああ、それなんだけどね。新しい先生にお願いしようと思ってね」

「……？　新しい先生なんていましたっけ」

　柳井が口を開こうとしたちょうどそのとき、ドアをノックする音が二度響いた。「どうぞ」という柳井の声でゆっくりとドアが開いた。私の面談中なのにと思いながら振り向いた理子は、思わず「あっ」と声を出してしまった。

　さきほど理子が図書館でストーカー疑惑をかけた、丸眼鏡の白シャツ男が立っていたのだ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（続く）