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 4限の「精読演習IV」のあいだ、心なしか理子は上の空だった。料理漫画か、それとも競馬漫画か――田中は一体どちらを読んでいたのだろう。「美食家グルメさん」は長く続いた人気漫画だった。「馬上の騎手ナイト」の知名度はそれほどでもなかったが、小山内おさないの話によると、田中は競馬に関心があったらしい。


 授業ではウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「痛み」をめぐる箇所を購読していた。が、理子は集中力を欠いていて、あまり内容を覚えていない。気がつくと、ついつい田中が読んでいた漫画のことを考えてしまっていた。


 授業のあと、理子は哲学専攻の共同研究室に一人残っていた。学生はもとより、助教の丸山ももう帰宅している。


(……あーあ、こんなことじゃいけないな……ちゃんと予習してたからよかったけど……)


 理子はペットボトルのミルクティーを両手で包むように持ちながら、回転椅子に座ってグルグル回っていた。


「……料理……競馬……料理……競馬……料理……けい」


 「ば」の音と同時に、ガチャと共同研究室のドアが開き、入ってきた人物と回転中の理子の眼が合った。


「……あ…………先生……」


 言いながら理子は急停止できずにまだ回り続けていた。


 入ってきたのは哲学専攻の新任教員・大道寺だいどうじである。研究休暇を取る柳井やない教授に代わって、10月から理子の指導教員になる予定である。


「……お取り込み中、すみません。丸山さんはもうお帰りですか」

「…………はい、もう帰られました」


 「お取り込み中」だった理子は、数秒後にようやく回転をやめ、恥ずかしさで頬を真っ赤に染めて言った。理子が図書館で大道寺にストーカーの濡れ衣をかけてから、まだそう日が経っていない。まともに大道寺と向き合うにはもう少し時間がかかりそうだった。


「遅かったみたいですね。今度の講演会のことで話があったんですが……どうです、東雲しののめさん、研究は順調ですか」

「……ええ、まあ……」

「歯切れが悪いですね。一応、これでも指導教員ですから、なにか悩みごとがあったら言ってくださいね」

「ありがとうございます…………悩み、というほどではないんですが」


 理子はさきほど失っていた冷静さを取り戻して言った。


「…………先生はどっちだと思います?」


 それから理子は喫茶店「クレール」の常連・田中の件を事細かに話した。はじめはドア付近で立ったまま聞いていた大道寺も、理子の話が長くなりそうと見るや、入室して理子の正面の椅子に腰を下ろした。


「『クレール』には僕もたまに行きますが、その田中さんという常連さんとご一緒したことはないかもしれません。中折れ帽をかぶっていたら目立ちますもんね」

「面白さから言ったら、きっと料理漫画なんですよ。でもマスターが田中さんと競馬の話をしてた、ってのが気になって」

「…………東雲さん」


 大道寺が理子の眼をまっすぐ見つめた。


かもしれませんよ」

「え、漫画がですか?」


 そう答えた理子に向かって、大道寺は茶目っ気たっぷりに微笑んでいた。理子と同じく大道寺も、容易に解けない謎を考えるのが好きなのかもしれない。いや、哲学をするひとはみなそうなのではないか。古代ギリシアの哲学者プラトンもアリストテレスも、身の回りの不思議な事柄への「驚異タウマゼイン」から哲学が始まった、と述べている。古代から近代に至るまで、多くの哲学者が同時に数学者だったり自然科学者だったりするのは、ごく自然なことなのだ。


「東雲さんはタレスをご存知ですか」

「タレスって、ギリシアの哲学者の、ですよね」


 タレスは、プラトンよりも200年ほど早い紀元前7世紀から6世紀にかけて活躍した人物で、宇宙の「原理アルケー」を探究した最初の哲学者たちの一人だ。いわゆる西洋哲学の「父」である。


「タレスは哲学者であると同時に、優れた天文学者でもありました」

「はい」

「ある日タレスは星を観察していて、うっかり溝に落ちてしまったのです。助けに来た老婆はこう言いました。『タレスさま、あなたはご自分の足下さえお見えにならないのに、どうして天上にあるものをお知りになれるとお考えなのですか』と」

「そう言いたくもなりますよね。空を見上げててうっかり溝にハマってたら」

「東雲さんもそうかもしれませんよ」

「え」


 大道寺が意地悪そうにニコリと笑った。


「大事なのは自分の足下かもしれません」

「?」

はなんでしょうか……でしょうかね」


 そう言うと大道寺は腰を上げ、わけが分からずぽかんとしている理子を尻目に「ではまた」と言い残して、共同研究室を出て行ってしまった。


(……私の足下……カント?……田中さんの漫画となにか関係あるの?……こんなこと考えてないで自分の研究しろってことかな……)


 それから一週間、理子の理性の働きにさしたる進展は見られなかった。田中の愛読漫画についての有力なアイディアも浮かばず、次第に理子のなかで田中の謎そのものが急速に存在感を薄めていくようだった。


 翌週の木曜日、理子はいつものように午後二時に喫茶店「クレール」を訪れた。小山内に伝えるべき答えは用意できていなかった。お盆に水を載せてテーブルに近づいてきた小山内に、理子は


(すみません、どっちの漫画だったのか、結局分かりませんでした)


 と言おうと身構えていた。しかし、理子が「す」と言うよりも先に、口を開いたのは小山内の方だった。


「あ、理子ちゃん。例の田中さんのことなんだけど」


 田中の一件はまだ終わっていないようだった。


(続く)

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