4

東雲しののめさんは、と思いますか?」


 理子からおすそ分けしてもらった「サターン・ドーナツ」、通称「サタド」のドーナツをおいしそうにかじりながら友香が言う。いきなりの問いに理子は眼を丸くした。


「……穴があるからドーナツなんじゃないのかな……もしドーナツに穴がなかったら……なんだろう、パン的な小麦粉のかたまり?」

「ということは、わけですね」

「……穴がなかったらドーナツじゃないという意味ではそうだよね」

「東雲さん、両方の手をこうやって丸くしてもらってもいいですか」


 食べかけのドーナツをティッシュのうえに置いた友香は、それぞれの手を半円形にたわめて、ドーナツ状になるように指先を合わせた。有無を言わさぬ口調に、理子も素直に従う。


「どうですか? 穴はありますか?」

「囲った部分を穴と呼ぶならあるよ」

「ですよね。だから手をはずすと…」


 友香が、ぱっと両手をパーの形に開く。


「穴はなくなる」

「そりゃそうだ」

「………そもそも手に穴は含まれていたんでしたっけ?」

「本質的には含まれてない。穴がなくても手は手だもん」


 友香は残りのドーナツをつまんで平らげる。つられた理子もそれにならった。


「ドーナツがなくなったので、穴もなくなりました」

「穴の存在はドーナツの存在に含まれるってこと?」

「そういうことになります……でも、どうでしょう」


 友香が悩むような、あるいは試すような表情で理子を見つめた。


「……東雲さん、ドーナツと手で、なにか違いはあるんでしょうか」

「……うーん、違わないかも。ドーナツの場合も、ドーナツが囲んでいる部分をあとから穴と呼ぶんなら、のか」

「穴がなければドーナツとは言えない。でも、穴っていうのはドーナツが囲んでいる空間のことなんですよね」

「そうそう」

「つまり、、しかし、

「おお」

「これがサタドのドーナツを食べながら私が発見したです」

「如月さん、すごい」


 えへんと胸を張る友香に、理子は率直に敬意を示した。カントの二律背反アンチノミーは、ほかならぬ理子の修士論文の研究テーマなのだ。


 気づくと時計の針は14時を過ぎていて、4限の開始時間が迫っていた。理子は友香ともう少し話したい欲求に駆られて言った。


「如月さん、このあと授業ある?」

「あ、はい。4限と5限があります」

「もしよかったらでいいんだけど、あとで話せないかな」

「え、いいんですか? 私の方こそ、もちろん喜んで」

「じゃあさ、5限が終わるの待ってるよ。場所は……」


 理子の理性が今日一番のきらめきを見せた。


「駅前のサタドでいい?」

「はい! あ、東雲さん」

「ん?」

「ドーナツ、ごちそうさまでした」


 友香が頭を下げる。二人は荷物をまとめると、またあとで、と挨拶を交わして、それぞれの授業に向かった。



 理子は昼に立ち寄った南郷五丁目駅前の「サタド」の店内にいる。実はすでに二度、コーヒーをおかわりしていた。


 店内の時計はもうすぐ20時になろうとしていた。理子が入店した夕方には混み合っていた店内も、夕飯時になって客もまばらになっている。


 友香が出席していた5限の授業は、多少延びたとしても18時には終わっているはずだ。大学からここまでは歩いて10分もかからない。


(………如月さん、どうしたんだろう………連絡先、交換しとけばよかったな……)


 窓際の席に座る理子は、すっかり暗くなった外を眺めてため息をついた。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る