6
「なんなんです、この部屋。南極からペンギンの哲学者でも招いてるんですか」
「ハハ……」
この極端な温度設定は共同研究室に常駐する丸山の職権濫用によるものだが、さすがに年上の大道寺には頭が上がらないのか、厳しい指摘に丸山も苦笑いをしている。
「さっき男子が二人、寒い寒い言いながら歩いていましたよ」
「……スミマセン、学生さんがいるときは温度上げときます」
「ああ、いいですよ、僕が」
席を立とうとした丸山にかわって、大道寺がドア横の壁に設置してあるリモコンを操作する。
「
「私も割と暑がりなので……さすがに羽織るものは持ってますけど」
「長居してたら風邪引きますよ。あ、もしかして東雲さん、本当はペンギンですか?」
大道寺は理子の手元にあるヒュームの『人間本性論』に眼をやって言った。理子が読んでいる版は、表紙にかわいいペンギンのマークが描かれた
「あはは、そうかもしれませんね……学部の子なんて、このあいだ冬物のカーディガン着てましたよ」
話の流れで
「如月友香さん、でしたっけ。会ったことのない学生さんです」
「先生、授業はまだですもんね」
六月という中途半端な時期に着任した大道寺は、この春学期は授業を担当していない。研究休暇に入る柳井教授にかわって理子を正式に指導するのも十月以降になる。
「まさに『ああ、友がいない』という状況だったんですね」
「? なんですか、それ」
「あ、すみません、つい。アリストテレスの言葉です」
理子は大道寺が世界的なアリストテレス研究者だということを思い出した。大道寺は今日も少しゆったりした白いリネンのシャツを着ている。ラフな格好の大道寺を見ていると、そんなすごい先生であることをついつい忘れてしまう。
「アリストテレスさんの友だちはどうしていなくなっちゃったんですか? やっぱりドーナツ屋の待ち合わせに来なかった、とか」
「古代ギリシャにドーナツはなかったでしょう。アリストテレスが言ったのは、自分には本当の友だちはいない、ということだったようです」
「孤独なひとだったんですか」
「いや、不思議なのは、彼はこの言葉を自分の友人たちに向けて言った、ということなんです」
「友だちがいない、って友だちに言ったんですか?」
「なんかすごい皮肉というか……面白いひとです、本当に」
話している大道寺は遠い眼になっている。記憶のなかに住む憧れのひとを、離れたところから見つめているようだった。
理子がアリストテレスの話をもう少し聞きたいと思った矢先、大道寺の背後でドアが開く音がした。理子はあっと息を飲んだ。入ってきた人物も、理子の存在に気づくとすぐに、理子と同じような表情になった。
さらに理子を驚かせたのは、その人物が発した言葉だった。
「東雲さん! このまえ、どうして来てくれなかったんですか?」
泣きそうにも聞こえる友香の怒った声に、理子と大道寺は顔を見合わせた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます