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「なんなんです、この部屋。南極からペンギンの哲学者でも招いてるんですか」

「ハハ……」


 この極端な温度設定は共同研究室に常駐する丸山の職権濫用によるものだが、さすがに年上の大道寺には頭が上がらないのか、厳しい指摘に丸山も苦笑いをしている。


「さっき男子が二人、寒い寒い言いながら歩いていましたよ」

「……スミマセン、学生さんがいるときは温度上げときます」

「ああ、いいですよ、僕が」


 席を立とうとした丸山にかわって、大道寺がドア横の壁に設置してあるリモコンを操作する。


東雲しののめさんは平気ですか、こんな寒いところにいて」

「私も割と暑がりなので……さすがに羽織るものは持ってますけど」

「長居してたら風邪引きますよ。あ、もしかして東雲さん、本当はペンギンですか?」


 大道寺は理子の手元にあるヒュームの『人間本性論』に眼をやって言った。理子が読んでいる版は、表紙にかわいいペンギンのマークが描かれたPenguin Classicsペンギン クラシックスなのだ。


「あはは、そうかもしれませんね……学部の子なんて、このあいだ冬物のカーディガン着てましたよ」


 話の流れで如月友香きさらぎともかの話題になり、理子は友香が待ち合わせに現れなかった件を大道寺に話した。


「如月友香さん、でしたっけ。会ったことのない学生さんです」

「先生、授業はまだですもんね」


 六月という中途半端な時期に着任した大道寺は、この春学期は授業を担当していない。研究休暇に入る柳井教授にかわって理子を正式に指導するのも十月以降になる。


「まさに『ああ、友がいない』という状況だったんですね」

「? なんですか、それ」

「あ、すみません、つい。アリストテレスの言葉です」


 理子は大道寺が世界的なアリストテレス研究者だということを思い出した。大道寺は今日も少しゆったりした白いリネンのシャツを着ている。ラフな格好の大道寺を見ていると、そんなすごい先生であることをついつい忘れてしまう。


「アリストテレスさんの友だちはどうしていなくなっちゃったんですか? やっぱりドーナツ屋の待ち合わせに来なかった、とか」

「古代ギリシャにドーナツはなかったでしょう。アリストテレスが言ったのは、自分には本当の友だちはいない、ということだったようです」

「孤独なひとだったんですか」

「いや、不思議なのは、彼はこの言葉を自分の友人たちに向けて言った、ということなんです」

「友だちがいない、って友だちに言ったんですか?」

「なんかすごい皮肉というか……面白いひとです、本当に」


 話している大道寺は遠い眼になっている。記憶のなかに住む憧れのひとを、離れたところから見つめているようだった。


 理子がアリストテレスの話をもう少し聞きたいと思った矢先、大道寺の背後でドアが開く音がした。理子はあっと息を飲んだ。入ってきた人物も、理子の存在に気づくとすぐに、理子と同じような表情になった。


 さらに理子を驚かせたのは、その人物が発した言葉だった。


「東雲さん! このまえ、どうして来てくれなかったんですか?」


 泣きそうにも聞こえる友香の怒った声に、理子と大道寺は顔を見合わせた。


(続く)

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