哲学研究室の午後

草野なつめ

第1講 ミネルヴァの研究計画は黄昏に飛ぶ

1

「あー、ダメだ、全然決まらない」


 思わず漏れた声が張り詰めた閲覧室に響いて、理子は赤面した。


 どんよりとした梅雨の昼下がり。三限の授業時間中にもかかわらず、早京大学図書館地下一階の閲覧室は、思い思いの本や資格試験の参考書を持ち寄った学生たちでにぎわっている。


 賑わっている、というのはもちろん言葉の綾で、実際にはみな無言でページを繰ったり、ペンを走らせている。心臓の音を立てるのさえはばかられるほどの緊張感だ。冷たい視線で全身に鳥肌が立ち、理子はハリネズミのように縮こまった。


 東雲理子しののめりこは、早京大学大学院・人文学研究科の修士課程に在籍している。いわゆる「女子院生」だ。


 専門は「哲学」である。


 理子は今年の三月に英央大学文学部を卒業し、早京大学には大学院から通っている。大学院とは、大学を卒業した学生がさらなる専門教育を受け、研究をおこなう場所である。二年間の「修士課程」を修了して、民間企業に就職したり公務員になる者もいれば、研究者を目指し、三年間の修業年限を標準とする「博士課程」に進学する者もいる。


 教育を受けるといっても、文系の学問、特に理子の専門である哲学の場合には、研究は学生の自主性に任される部分が大きい。取るべき授業はそれほど多くなく、「修士論文」のための研究を独力で進めていくことが求められる。ただし、束縛のゆるい環境のなかで学生が道に迷わないように、「指導教員」が定期的に面談し、研究上のアドバイスをしてくれる。


 今日は指導教員である柳井則男やないのりお教授との二度目の面談の日だ。四時に柳井の研究室を訪ねることになっている。


「もう二時か……」


 時計を見た理子は、今度は口に出さないように十分気をつけて、心のなかで呟いた。今日の面談にあたって、柳井からは、修士課程での大まかな「研究計画」を示すように言われている。現段階では綿密なものでなくてもよいが、少なくとも「どの哲学者を扱うのか」「なにをテーマにするのか」を伝えなくてはならない。


 理子は参考図書コーナーから抱えてきた『哲学大辞典』をめくりながら、小さくため息をついた。


(続く)

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