第6話

 黒司祭は、しばし茫然自失といった体でことのなりゆきを見ていたが、その地響きで我に返った。とたんに歓喜の声をあげた───いや、狂喜と表現すべきだろう。


 「キタァ! キタキタキタァ!」


 完全に、声がひっくり返っていた。血まみれの体で、涙とよだれで顔中べたべたにし、よく見ると、服の裾には別の色のシミまであって、どうやら失禁もしているようだ。体液という体液を垂れ流す醜態をさらしながら、それでも必死の形相で訴えかけた。


 「ようこそおいで下さいましたぁ! 我が呼び声に答えて下さいまして、誠にありがとうございまするぅぅぅぅっ! 魔王様! 魔王ゴルマデス様ァ! ゥアアアアアアァ!」


 魔王ゴルマデス───この巨躯の龍が、そうなのか。そういえば、さっきもそう呼びかけていたな。


 「我に、我に今一度、力を、お力をぉぉぉ! お授け下さいませぇ! かの忌々しい勇者どもを屈服せしめる力をぉ!」


 彼には、魔王ゴルマデスだけが実体として見えており、重なっている飛鳥さんや、あるいはそばに浮く僕は見えていないようだった。


 「……あたしはアレに呼ばれたのさ。ここんとこずっと、あいつと対話させられてた」


 飛鳥さんが、僕にしか聞こえない声で、うんざりした様子で言った。


 毎度こんなのに呼ばれていたのだとしたら……ひっくり返った声の、力を望む懇願、醜態をさらすのも厭わない奇矯な欲求が、授業中に毎度毎度聞こえてくるのだとしたら、どういう状況かはさておき、うん、笑うな。笑っちゃう。授業を聞きながら耐えろというのは、拷問に等しい。飛鳥さんが教室を出ていく理由が、とてもよくわかった。


 「何度も来てるの?」


 尋ねると、中にいる飛鳥さんは、しっ、邪魔するなと人差し指を口に当てつつ答えた。


 「アルガレイムだけじゃないよ、どんな世界へでも、呼び出されればすぐに行く───だけど、ここはもう潮時みたいだ。今までは、使い魔をばらまくだけでこいつが勝手にあくどくやってくれてたんだが、いよいよ魔王ゴルマデスが自ら出てかなきゃならん、てことらしいよ」




 魔王ゴルマデスの名は、僕が得たアルガレイムの世界知識の中にある。古来伝えられてきた邪悪な存在で、世界にはびこる魔物や悪魔は、すべて彼の眷属だ。そして、およそ人間が悪の心を持ち、争いごとが引き起こされるのも、彼の意思のままにあるとされている。


 邪悪ではあるが、その全能ゆえ、闘争や混沌は人間の根源であり、あるべき自然の姿と考える者たちから、信奉を受けた。神格視されながら、実在するとも固く信じられ、対話を試みて様々な研究や儀式が繰り返されていた。とりわけイーブラ派の傾倒は、常軌を逸していた。彼らはゴルマデスに、世を支配する力を与えて欲しいとこいねがったのだ。


 その結果が、未曾有の危機に直面した、アルガレイムの現状である。


 魔物が人間を襲う事件が急激に増えた───という報告が各地から上がり始めてから、散発的だったそれが、有機的になり、組織的になり、やがて軍隊となって人間の住む町へ押し寄せ、殺戮と略奪を繰り返すようになるまで、さほど時間はかからなかった。


 すべては、魔王ゴルマデスの(つまり、飛鳥さんの)意を汲んだイーブラ派が、糸を引いていたわけだが、はじめのうち人々はその意図に気づかず、ただ恐れおののくばかりだった。


 不安や絶望が大陸全土に広がる中、真実を暴いていったのは、どこの誰とも知れぬ勇敢な四人の若者たちだった。彼らは、危険な地域にも怖れ知らずに飛び込み、凶暴化した魔物を退治するとともに、事件の謎に丹念に取り組み、襲撃の陰には必ずイーブラ派の神官がいる事実を突き止めた。


 彼らが自らの痛みを厭わず戦い、正義を貫き、真実に向かって邁進するさまは、人心を大いに鼓舞した。彼らに続けと、各地でイーブラ派に抵抗する運動が巻き起こり、次第に人間が魔物の軍勢を押し返して、今や勢力図が逆転しつつあった。


 四人の若者たちは、そうした抵抗運動のシンボルとして、いつしか「勇者」と称賛されるようになっていた。しかし彼らは、そう呼ばれてもけして驕らず、真実の追及の手を緩めることなく、いよいよイーブラ派の陰謀の核心に迫っていた。




 ───なるほど魔王自ら乗り出す最終局面には違いない。勇者たちはついに、イーブラ派のリーダーの正体と本拠地を突き止め、乗り込んできたのだ。


 つまり彼であり、ここである。魔王の足下に取りすがる血まみれの黒司祭は、アルガ真教正統派のバンギア帝国大教区長という要職にあったが、勇者たちに裏の顔を暴かれ、戦いに敗北して、地下聖堂まで秘密の近道を通って逃れてきたのだ。そして逆襲の望みを託すため、魔王の召喚を試みた。おそらく、勇者たちも間もなくこの場に現れるだろう。


 飛鳥さんが口を開いた。今度は僕にではなく、魔王として黒司祭に向けた言葉だった。


 「愚かな我が下僕よ、なんというざまだ」


 声が飛鳥さんのものではなかった。発声したのは魔王だった。竜に似た巨体の、牙だらけの大きな口から、野太く、その低音の波動だけで地響きを引き起こすような、怖ろしい声。


 「も……申し訳ございません、魔王ゴルマデス様……忌々しき勇者どもは、想像以上に力を増しており、もはや一騎当千、手に負えません。力及ばず、口惜しい限り……」


 「力及ばず? 貴様にどれだけ力を貸し与えたと思っている。まだ足りぬと言うのか、この役立たずめが!」


 「ももも申し訳ございません!」


 黒司祭は、地に這いつくばって頭を下げた。しかしその表情は歪んだ喜びに満ちていた。


 言葉は下手に出ている。心理では畏怖している。が、致命傷に近い傷を負っていながら、それでも頭をぺこぺこしてへつらう姿から読み取れるのは、召喚に成功した自身に酔い、その到達点の先も手前も何もわからなくなってしまった狂気だった。


 血がにじみしたたり、体の下の血だまりに落ちていく、その傷の痛みにも気づかぬような様子で、黒司祭がつぶやいた。


 「ゴルマデス様が御自おんみずからお出ましになったのだ。まだやれる、まだやれる、うひーひひひ、これで我が野望は安泰だ。まだやれる……」


 しかしゴルマデスは───つまり飛鳥さんは冷たく言い放った。


 「貴様の野望になど、興味はない」


 「なんと……我が世界征服の野望のために、これまで力をお貸し下さったのではないのですか」


 黒司祭はそう口にするが、野望を満たしてその先どうする気だったのか。まったく何も目に映っていないだろう。それを見透かしたかのように、飛鳥さんは言った。


 「おまえは本当に愚かだな。我自らが出てきたことの意味がわからぬか?」


 憑依する飛鳥さんがぐっと腕を前に伸ばすと、魔王ゴルマデスのごつい腕も前に伸びて、黒司祭の頭を掴み上げた。易々とその体は持ち上がり、宙ぶらりんになった。


 飛鳥さんと魔王ゴルマデスの動きはほぼ連動している。神と信ずる、身の毛もよだつ龍の異形の姿が、操り人形に過ぎないと知ったら、彼は何と思うだろうか。


 ……黒司祭はしばらく苦しみ悶えてじたばたしていたが、やがて抵抗をあきらめて、されるがままにぶら下がった。


 「な……何をなさるのです……」


 「貴様はいい道具だったが、もう用済みということだよ」


 軽侮する言葉は狂気を孕んでいたが、飛鳥さんはとても冷静であるように見えた。

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