第55話

 飛鳥さんは、校長がペンを取った段階で既に部室を飛び出していた。もちろん、僕を含め、校長室にいなかった全員が、その後に引き続く。


 校長室の前まで来ると、彼女は遠慮なくばぁんと扉を開けた。


 「な、何かね? 無礼だぞ!」驚く校長に、


 「オークの飼い主に教わる礼儀はねぇよ」そう言い放つと、飛鳥さんは応接テーブルまで歩み寄り、腕を組み、ニヤリと笑って校長を睥睨した。


 「こっちの思惑通りに罠にかかってくれてありがとうよ。礼を言う」


 「罠、だと?」


 「軽々しくはんをつくな、ってセンセイに教わらなかったか? 覚えときな、契約書は文面さえ合意していればいい。題目がなんだろうとかまわないんだ」


 ばん、とテーブルに手をつき、阿久津校長を真っ向からにらみつけた。教師と生徒なんて関係はそこに存在していない。魔王対魔王の、直接対峙だ。


 「あんたはその契約を履行する法的義務を負った。もしもあたしたちが勝って、あんたがその内容を実行しなかった場合、あたしらはあくまで『契約の履行を求める訴訟』を起こす。校内でこれまでに何があったかは一切合切関係なく、義務を果たすか、果たさないか、それだけだ。裁量権? いくらでも主張してくれ。裁判所でな」


 「き、君たちは未成年だろう! 法? 契約? そんなままごとが通じるとでも―――」


 飛鳥さんをにらみ返そうとした校長に、ソファに腰掛けたまま、勇が声を投げかけた。


 「校長先生。僕の名前を、言えますか」


 「もちろん。君は、勝呂、こ―――」


 「僕は勝呂勇です。公平は父の名です。弁護士をしています。―――僕は代理人だと、言ったでしょう。父に確認しますか?」


 勇が携帯電話を差し出すと、校長の顔色が、さっと変わったのが見えた。


 飛鳥さんが冷たく声を投げ下ろした。


 「あんたは今、現役の弁護士を相手に名指しして、契約したんだよ」


 「こ、こんなものは―――」


 「誤認契約だ、とでも言いたいか? いいよ、それを含めて争おうぜ。いやしくも学校長が、生徒の名前を知らなくて誤認したなどという言い訳が通じるのか。ほんの数日前に、自分が停学処分を下した生徒の名前すら覚えていない、そんな学校長のふりかざす裁量権に、どこまで正当性が認められるのか!」


 この策の本領は、校長を罠にかけることそのものではない。


 今この瞬間が、飛鳥さんの放った最大のブラフだ。


 現実の法律論をいえば、誤認で罠にかけたことには違いないし、公序良俗に反する契約だと判定されれば民法九〇条の規定に引っかかり、契約無効で終わる可能性がある。実際に裁判に訴えても勝てる保証はなく、そして目的は裁判に持ち込むことじゃない。


 校長は、「愚かな子供」の誰が何をしようと権力で押しつぶせると慢心していた。それゆえ、誰が尋ねてこようと同じだから、名乗りすらどうでもいい、聞き流していいものだった。大宅に観察させたのはそこだ。


 犯したボーンヘッドを自覚させ、重荷に変えるのだ。慢心と怠惰の果てに、法という校外の権力の介入を許した結果、メンツが潰れ、権威が失墜し、築き上げてきた地位を失ってしまう可能性を、彼に手枷足枷としてくくりつけるのだ。いや、可能性も何も、オークキングのあからさまな庇護が裁判沙汰になるかもってだけで、職員室での立場は十分失うだろう。今や、炎の魔王を守る火炎は、自らを苛む氷と化した。


 飛鳥さんは、今度は校長の肩に手を置いて、耳元でささやいた。


 「さぁ―――ポーカーやろうぜ? この魔王飛鳥さくらが、慈悲深くも、一筋の希望を残してやってるんだ。あんたはこの勝負に勝てばいい、それでこの話は終わりだ」


 「ぐっ……」


 阿久津校長が目を見開いたまま下を向き、言うべき言葉が見当たらずに声を噛み殺しているのがわかる。


 僕はまだ高校生だから、出世や地位がどれほどの価値を持つものかよくわからない。でもオークキングの親に媚びを売るくらいだ、阿久津校長にとっては、プライドを譲り渡し、人生の他の何を犠牲にしてでも守りたいものに違いない。


 僕らの目的は───それを校長自身の判断でベットさせること。命に等しいものを賭けるギャンブルに、引きずり出すことだ。




 飛鳥さんが以前言った理屈によれば、ここでもう勝負は決するはずだ。


 だが、相手はさすがに魔王だった。


 校長は、自分が署名してしまった文書を皺になるほど握りしめ、ぎりぎりとにらみつけていたが、突然手の震えが止まり、はっとその表情が冷えた。そして直後、唇の横をにやりとひん曲げたのを、僕は見逃さなかった。悪意を知り尽くした笑みだった。それに比べれば、飛鳥さんが普段見せるニヤニヤ笑いの邪悪さなんて、軽やかで優しくて、彼女の魅力以外の何者でもない。


 「───よかろう。勝負すればいいのだな。そして、私が勝てばいいのだ」校長は笑みを消して、弱々しく言った。「ならばひとつ、罠にかかった哀れな男に、ひとつ慈悲をかけてくれんか」


 「慈悲?」


 「この文書には、『テキサスホールデムのトーナメント戦』としか書かれていない。ならば、条件のいくつかは私に決めさせて欲しい」


 「条件? ストラクチャか?」ポーカーのトーナメント戦では、ブラインドの変動があり、時間が経過により高額になることは既に述べた。何分経てばいくらになるか、時間と額の関連をストラクチャという。


 「ストラクチャもそうだが、私が言いたいのはもっと根本だ。ひとつは期日。君たちとは違って忙しいのでね」君たちとは違って、って生徒に直で言っていいセリフじゃないと思うのだが。「予定は私に合わせてもらいたい。来週の木曜の放課後。それ以外は私のスケジュールが空かない」


 「期末試験直前かよ。えげつねぇな」


 酷い話だ。祝日のないこの時期のど平日、週半ば、しかも翌週からは試験週間に入る。後から城市先生が、「スケジュールが空いてないなんてウソよ! それどころか、自分は水曜と金曜に公休を入れてたわ!」と憤慨していたことを言い添えておく。


 「学生の本分は勉学だ。プレイヤーになった生徒がその前後に正当な理由なく欠席した場合、また、試験でひとつでも赤点を取った場合は、勝負の結果によらず君たちの負けだ。いいね」


 「まぁ、それは道理だな。受け入れよう」


 余裕綽々で応じた飛鳥さんに、校長は最後にこう言い放った。


 「もうひとつ。勝負はノーリミットでなくフィックスリミットで行う。それも、五対五のチーム戦だ」


 飛鳥さんの表情が一瞬硬くなった。しばらく考えていたが、やがて「……いいだろう」意を決して答えた。




 かくして、ポーカー部対校長のポーカー勝負が、僕らの運命を決することとなった。


 校長に命を賭けさせる代償に、こちらも部の存続を賭けた。飛鳥さんは「命というほど大事なものじゃないさ」と嘯いたけど、負けられない戦いなのは間違いない。


 勇者のいないこの世界の、魔王対魔王のつぶしあいだ。

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