第3話

 僕は、入学式のあの日から、飛鳥さんが気になってしょうがなかった。


 恋愛感情? 違う。単なる好奇心だ。


 普通の人間であることしか知らなかった僕にとって、彼女の普通でない生き方は鮮烈だった。彼女の醸し出す不思議な空気の色合いには染められたいと願い、ニヤニヤ顔も不快に思わなかった。


 いつしか毎日、飛鳥さんを目で追っていた。




 ある日の昼休み、飛鳥さんはいつもの片頬杖で、窓の外を見ていた。……のように見えて、うとうとまどろんでいた。さすがに寝ているときは、ニヤニヤ笑いはおもてに出てこない。それがなければ見目麗しき飛鳥さんを、僕は少し離れた自分の席から、しばし堪能していた。寝ている女子の顔をしげしげ窺っているというのは、悪趣味と言われそうだが。


 と、彼女は突然、ぴくりと体を震わせて目を覚ました。直後に、にやりにやけの笑みが顔に広がった。伸びをしながら立ち上がり、腰に手を当て、頭を掻きながら教室を出ていった。


 授業を抜け出すときと同じだ、と直感した。僕は飛鳥さんの後を追った。彼女が何をしているのか知りたかった。


 昼休みだから廊下には人通りがある。たむろしてだべる集団もいる。飛鳥さんは、そうした騒がしさを払いのけるように、うっとうしげに手をひらひらと振りながら、すたすたと廊下を歩いていった。


 一度、女子トイレの前で足を止めた。中を覗き込んで、それからまた歩き出した。僕もその前を通過したが、中からは女子の甲高いおしゃべりが聞こえてきた。


 トイレの先に、人通りの少ない階段がある。飛鳥さんはそこから一階へ下りた。下りた後、普通なら一階の廊下へと折れて進むところ、彼女はさらに階段を下りた。その先は半地下の倉庫で、常時施錠されている。つまりは行き止まりだ。


 どうやら彼女は、その行き止まり───というか、人気のない暗がりを求めていたらしい。そこでふぅと息をついて、壁に身をもたせかけた。


 彼女は誰も見ていないと思っていたのだろう。けれど、この階段は、手すりの下が金属柵になっている。踊り場の辺りでしゃがみ込むと、その隙間を通して、倉庫の前の彼女の姿がはっきりと見え───。


 ───そこには誰もいなかった。彼女は忽然と姿を消していた。


 え?! 僕はびっくりして、何度か瞬きをした。


 ───そこに彼女はいた。やっぱり、壁に背をもたせかけていた。


 気のせい?


 いや……確かに、数秒、消えた。


 ふっと理解した。彼女が授業をサボり、教室からいなくなるのは、この「消える」現象を他人に見られたくないからだ、と。あの英語の授業のとき、教師が廊下を見たタイミングで、彼女は逃げたのではなく「消える」現象の最中だったとすれば、辻褄は合う。


 飛鳥さんが壁から離れ、再び階段を上ってきたので、僕は慌てて立ち上がった。見ていたと知られるのが気まずかった。


 僕と飛鳥さんはそのまますれ違った。飛鳥さんは、踊り場で立ち尽くしている僕を気にも留めなかった。ただ、彼女はどこか疲れた様子で、そして───僕は一瞬、金属の檻に囲まれた感覚に陥った。彼女に血の匂いがまとわりついていたせいだ、と気づくまでに、少し時間がかかった。




 その日の放課後、僕は意を決して、昇降口で靴を履き替えている飛鳥さんを呼び止めた。


 「飛鳥さん」


 「ん? 友納くんか、なんだい?」


 名前を覚えていてくれたことがちょっとうれしい───というのは置いといて。


 返事はしたものの、動きを止めてはくれなかった。つま先をとんとんと三和土たたきに打ちつけてかかとを収めると、飛鳥さんは昇降口を出て歩き出した。僕も靴を履き替えて追いかけた。


 「ちょっと待って、えっと、ちょっと話、いいかな」


 「あたし、もう帰るんだけど」


 「じゃあ、一緒に帰ろう」


 自分でも、何を言ってるんだ、って驚いた。まるで誘ってるみたいじゃないか。


 「一緒に……って」飛鳥さんはひっひっひ、と本当に魔女みたいに笑った。「あたしんち、すぐそこだよ。近いからこの学校にしたんだから」


 飛鳥さんは親指を立て、駅の方角を指し示した。徒歩五分とかかるまい、駅前にそびえるタワーマンション群のことを言っているようだった。


 「それでもよけりゃ、好きにしなよ」


 飛鳥さんはさっさと歩き出して、駅の方向へ通ずる通用門へ向かった。僕は急いで自転車置き場に走り(僕は一五分くらいかけて自転車通学しているのだ)、自分の自転車を引っ張り出して後を追った。


 変な誘い方をしたから、逃げられたりしないか少し心配したけれど、杞憂だった。通用門への通路脇には武道場があって、女子弓道部が黒髪を揺らしながらランニングする傍らを、ぽつんと目立つ白髪が悠然と揺れていた。


 ひとしきり漕いで追いついた後は、彼女の隣を、自転車を押しながら歩いた。


 「飛鳥さん」


 「何」


 「今日の昼休み、どこへ行ってたの」


 飛鳥さんはしばし考えるそぶりを見せた。やがて、階段ですれ違ったことを思い出したようだった。


 「あのとき、見てたのか」


 僕は頷いた。


 「何を見たかは訊かないよ。気のせいだ、忘れな」


 「やだよ。気になる」


 「だから気にすんなって───」


 僕の目がよっぽど真剣だったのか、飛鳥さんは苦々しく顔を歪めた。たぶん今までは、たとえ誰かが気づいても、「気のせいだよ」で押し通してすませていたのだろう。そりゃそうだ、人間が突然消えるなんて、目の当たりにしたって普通は信じたりしない。信じて、気にして、好奇心に満ちて寄ってきた僕は、どうやら飛鳥さんにとって、度し難い存在のようだった。


 しばらく逡巡してから、彼女は答えた。


 「あたしさぁ、近寄りがたい、とか、関わったらヤバい、みたいな雰囲気、出てない?」


 「出てるよ」


 「なら、空気読みなよ」


 「読むかどうかは、自分で決めるよ」


 「ふぅん……変なヤツ」


 「変なのは、飛鳥さんでしょ」


 「あたしは、空気を十分に読んでアレだから」自覚してるんだ、自分が変な行動を取ってるって。……それなら、と、僕は以前から知りたかったことを尋ねた。


 「飛鳥さんは、いいの? 変とか魔女とか言われても」


 答えは、力強くシンプルだった。


 「全然? 誰に何と言われようと、あたしはあたし」


 「うらやましいな、そういう風に考えられるって」


 通用門を出て、駅へ向かう路地に出る。この時間帯は、帰宅する南高生がぞろぞろと歩いているが、静かなものだ。マンションやオフィスビルに挟まれているため、迷惑になるので騒がないようにかなりきついお達しが出ているのだ。かつては何度もクレームが来たらしい。僕らもしばらく無言で歩いた。


 路地を抜けると駅前の広場に出る。角にあるコンビニの前では、見慣れた店員が店の前を掃除していた。万年不機嫌で、二言目には「近頃の若者は」と不平をこぼすおっさんで、南高生が来るのを迷惑がっていた。


 ───微妙に違和感があった。この人、こんなにむっすりしていたっけ? もっと愛想がよかったような……高校近くのコンビニなのだ、高校生の振る舞いにいちいち腹を立てていてやっていけるはずがないのに。


 でも、間違いない、この人は入学式の日初めて見たときから、ずっとこうだった。その愛想の悪さときたら、生徒たちの間で評判になるくらいだ。


 ……飛鳥さんが僕をじっと見ていた。


 「どうかしたかい?」


 「いや、なんでもない……」


 「ふぅん……じゃ、あたしこっちだから」


 飛鳥さんは、何か思い当たった風だったけれど、言葉にはしなかった。



 彼女は交差点を渡って去っていった。行く先を目で追ってみると、近くのマンションの敷地内に入っていくのが見えた。住んでいるというのは、嘘ではないらしい。


 ……二〇階? 三〇階以上、ある? 窓の数を数えようとして、やめた。とにかく高層のマンションだ。……値段もそうなのかな、飛鳥さんちって、もしかしてもの凄いお金持ち? ここで暮らすのって、どんな感じなんだろう。


 平屋の借家住まいには遠い世界の話で、僕はやっぱり考えるのをやめた。まるで違う世界の人が同じクラスにいるのだから、学校というのは面白いところだ、そんなことを思った。

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