第47話

 探偵はしばらくうつむいて、じっと考えていた。


 やがて顔を上げると、スポイトで試験管に試薬を垂らすように、ひとつひとつの単語を口の中で確かめながら、丁寧に言葉をつむぎ始めた。


 「俺にとって重要なのはイザベルだ。もしも世界が救えたとしても、イザベルがいなければ意味はない。―――もう一度尋ねる。その体を返すつもりがあるか」


 「何?」


 魔王オズブムは、訝しげに答えたが、対話そのものは拒まなかった。魔王は―――飛鳥さんはいつだって堂々としている。


 「例えばだ。『もし勝ったら、イザベルの体を返す』と約束をかわし、俺にも勝てる可能性がある勝負をしかけたなら、貴様はそのギャンブルに応じるか? そして勝敗が決した後、その約束を履行する意志はあるか?」


 「なるほど。それさえ勝てれば、君は身を引くと」


 「小さな望みが果たされたなら、貴様が世界すべてを掌中に収めるその日まで、世界の果てまで逃げ続ける、というのもひとつの選択だ」


 「勝負の内容にもよるが、かまわんよ。体だけ返したところで、どうにもならんと思うがね。命が残っていることは保証するが、心までは保証できん。何しろ、ジェシカが命乞いをしたとき、すでにこの娘に正気はなかった。……余の真の姿を見てしまったからな」


 その言葉と同時に、フランス人形のようであったイザベルの体に異変が始まった。後頭部がぼごんと膨れ上がり、何やらぬめぬめとしたものが溢れ出して、少女の小さな体を覆っていく。


 「それでもいい。たとえ狂気でも、貴様とともにあるよりは人間的だ」探偵は異変を見て驚愕の表情を浮かべたが、それでも努めて冷静に、言葉を選びながら話し続けた。「俺が確固とした回答がほしいのは、後の質問の方だ。勝負が決した後、約束を守らずに逃げ出すことはないだろうな? 先の例なら、イザベルの体を必ず返すと、貴様は確約できるか?」


 「愚弄するのか? なぜ余が人間ごときから逃げねばならぬ?」


 体が異物に包まれていくにつれ、少女の声がくぐもった低いものへ変容していく。


 「ならば、一度交わした約束は決してたがえぬと、誓えるか? もし約束が果たされなくとも、その不実を罰する手立てが俺にはない。貴様のプライドにすがるしかないんだ」


 「二言はない。余の誇りにかけて誓おう」


 「そうか。魔王は約束を違えないのだな」


 「無論だ」


 「俺が聞きたかったのはそのセリフだ!」


 探偵は強く声を発すると、跳ね上がるように立ち、唐突に近くの戸棚を荒々しくかき回し始めた。―――その背後で、魔王の変容はとめどなく続いている。


 「貴様がイザベルの体を借りていて。そして魔王が約束を違えぬというのなら―――俺がかつてイザベルと交わした約束はどうなる?」


 探偵が戸棚から取り出したのは、一組のトランプだった。ケースから取り出す手つきももどかしく、テーブルに叩きつける。


 「言ったはずだぞ。こまっしゃくれたもの言いで、『ポーカーであたしに勝てたら、何でもいうこと聞いてあげるわ』って、自信満々にな。……子供なのに強すぎるとは思っていたんだ。無理もない、中身は魔王だったんだから」


 僕はあきれつつ飛鳥さんに尋ねた。「飛鳥さん、その体でポーカーやって勝ちまくってたの?」


 「だってわざと負けるのヤじゃん」飛鳥さんはあっさり答えた。


 「よく怪しまれなかったね?」


 「逆さ。怪しむようにこっちから水を向けてやんなきゃ、かわいい姪御が憎き魔王だなんて微塵も疑ってくれないんだよ。そういう奴なんだ、あいつは」


 なるほど。だからルート誘導が必要だったのか。魔王にも苦労はあるもんだな。


 さて魔王オズブムの体は、いよいよ気色の悪いぬめぬめの塊だ。大きく膨れ上がって、探偵の背丈よりも肥大化している。幼女のままなのは首から上だけで、今まで見上げていた目線は、今は立場を誇るように見下ろしていた。「人間らしい小知恵が回るのは確かなようだな。余にその約束を守れ、か。それで君は何を望む?」


 「眷族とやらをみな引き連れて、貴様の世界へ帰れ。二度と人間界に出てくるな!」


 「そちらが負けたら?」


 探偵は唇を噛みしめて言った。「この命くれてやる。その後は、世界をどうとでもするがいい」


 「君の命などどうでもいい。もしもその命が世界と釣り合う賭け金になると思っているなら、自惚れにもほどがある。だが」


 幼女の顔が、壊れた人形が人を殺すホラー映画のように、大口を開けてケケケケケと薄気味悪く笑った。細やかに生えそろっていた乳歯が、一瞬、牙めいて見えた。


 「真の恐怖を知らぬ自惚れた馬鹿が、泣き喚き命乞いする哀れな姿には興が乗らぬでもない。いいだろう、魔王は約束を違えぬものだ。だが、果たして余に勝てるかな?」


 後頭部からあふれていたぬめぬめが、一気に大量にあふれ出て、少女の体だったものを完全に覆いつくす。魔王、第二段階への変貌だ。


 その姿は名状しがたい。見るだけで吐き気と恐怖感を催す、ぬるぬるとうごめく不定形の汚泥の塊がそこに現れていた。どうにか頭や腕と表現できそうな突起物があり、人型といえるかもしれない。人型ならば胴体にあたる部分は、ガラス状の透過する物質でできた球体で、泡立ってどろりとした液体に満たされた中に、フリル服を着た幼女イザベルの体が、胎児のように縮こまって漂っていた。


 探偵がぐっと唇をかみ締める。その姿を見るだけで呼び起こされる恐怖に、足がガクガクと震えているが、魔王の腹の中で眠る少女の姿もまた見つめて、なんとか耐え、トランプを握り締める。五二枚のカードに、世界の命運は託された。

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