第46話

 転移した世界は―――二〇世紀初頭アメリカ東海岸、ボストン近郊の小都市、ポートハワード。小さくとも、新大陸への移民が始まった当初からの港町で、歴史は長い。


 ポートハワードでは今、恐ろしい奇病が蔓延していた。「人喰らい」である。文字通り、人肉を食らわずにはおれなくなる病だ。


 罹り始めは、食欲を失うだけに見える。みるみる痩せ衰えていく。目がぎょろりと浮き出し、皮膚がどす黒くくすんで、木の皮のように乾き剥がれ落ちるに至って、突然に酷い飢餓を訴え出す。飢えを癒やすため、他者に襲いかかって人肉を食らうようになるのだ。その頃には脳まで完全に侵されており、もはや人間の言葉を解することのない怪物と成り果てている。


 治療法はない。進行を抑える薬は見つかったが、抑えるといっても、体機能のほとんどを併せて止めてしまう、麻痺毒とも呼べる代物だった。怪物になりたくなければ、植物人間になるしかない。


 それさえ生産が追いつかず値が上がり、行き渡らぬ貧民街は今や人喰らいの巣と化した。市の中心部はバリケードで守られ、一定の安全は確保されているが、餓鬼たちは昼夜を問わず肉を求めて攻め寄せており、いつまで保つかは誰にもわからなかった。


 そんな中、この悪夢の病を根絶するすべを求め、日夜奔走するひとりの若き探偵がいた。理知的な黒縁眼鏡に、擦り切れ始めても意固地に着続ける、死んだ義兄から譲り受けたスリーピース。それから―――左腕だけに、いつも長い革手袋をつけている。


 彼は独自の視点から、病の真相に迫りつつあった。なんとなれば、彼はおそらく唯一、この奇病に罹りながら、部分的な感染のみにとどまり、怪物化から逃れた人物なのだ。


 彼は自分の腕に宿ったものが何か理解している。ウィルスほどに微細な、悪魔の群れだ。悪魔は神経を介して侵食し、人体を欲望のままに支配する。だが彼が感染者に指先を噛まれたとき、同じく真相に迫りすでに死地にあった義兄が斧を手にし、腕の切断を試みたのだ。その結果、彼と悪魔との神経のつながりは偶然にも、逆に彼が悪魔を組み伏せる状態で保たれた。


 手袋で隠された彼の左腕は、普段は老人のようなくすんだ肌だが、ひとたび指令を与えれば、樹皮の如き悪魔の腕へと変貌する。知性で制御されたその腕は他の犠牲者たちとは異なり、自在に爪を伸ばしたり、皮膚を硬化させたりでき、彼を常人ならざる戦士たらしめてもいた。


 ……つまり彼が今回、勇者ポジションで飛鳥さんと戦う人物である。


 場所は―――魔王城でも、コロシアムでもない。アパートの三階にある、探偵の自宅であった。


 蔦が絡まる煉瓦造りのアパートは、あちこちひび割れ、塗られたペンキはおおよそはげ落ちていて、築数十年は過ぎていると見てとれた。とはいえ、ひびにはきちんとコーキングが施され、古いなりに手入れは怠りなく、住むには快適そうだ。


 僕はいつものようにふわふわと漂う何かで、今回はなぜか出窓の外から、部屋の中を覗き込んでいた。窓の向こうは、奥に小さな暖炉がしつらえられたダイニングで、キッチンともつながっているようだがよく見えなかった。窓際に安っぽい合板のテーブルと、二脚の椅子が向かい合うように置かれている。テーブルの上には、一輪挿しと、家族が映った写真立てが並んでいた。



 そしてそのテーブルの向こうに、対峙するふたりの人物。


 片や、自宅の中にあってもいつも通りしゃれた着こなしの探偵。だが、既にジャケットは脱ぎ捨て、左の袖をまくり上げている。それが彼の臨戦態勢だった。


 彼が眼光鋭く見据える相手―――今回の魔王様は、見たところ七・八歳、青い眼にブロンド髪の少女、ていうか幼女だった。……ちっちゃい。お人形さんみたい、という形容があるが、ひらひらフリルの服といい、思わず梳かしたくなるウェーブがかった髪に真っ赤なリボンといい、愛玩人形そのものだ。抱きしめたくなるかわいらしさだ。


 「友納、何考えてる? ……だから連れてきたくなかったんだっ!」


 飛鳥さんの声は、これまで同様、僕にだけ届く。


 「言っとくがこれは、世を忍ぶ仮の姿だっ! 第一段階だっ! 魔王がこんな姿のままのわけないだろ!」


 ……かくもアホな会話がなされているとはつゆ知らず、探偵は、眼鏡のつるをちょいと上げて位置を直しながら、人形みたいな飛鳥さんを見下ろしていた。


 「……イザベル。君が魔王オズブム・ビプクィフだったとはね。うかつだったよ。君はいつからその中で、右往左往する僕をせせら笑っていたんだい?」


 「はじめからだよ、愚かな若い探偵さん」舌足らずな声が、侮蔑の声を投げ上げる。「ジェシカが―――君の愛する姉が、涙ながらに言ったのさ、この子の命だけは助けてくれとね。美しい親子愛に免じて、余はしばしこの体を借り受けて、我が眷属がはびこるさまを眺めていたわけさ。まったく、人間どもの滑稽な姿を堪能させてもらったよ」


 「借り受けた、と言ったな。返すつもりがあるのか」


 「あろうとなかろうと、君には関係ないと思うがね。わからぬか? ここはバリケードの中だ。君たちが安全地帯だと信じ、抵抗の気勢を上げていたこのポートハワード中心街に、魔王はずっと鎮座していた。余は指をひとつ鳴らすだけでよい、さすれば我が眷属は直ちにこの世界を喰らい尽くす」


 「そんなことはさせないっ……」


 「吠えたところで、できることは何もない。君に余を阻むすべはない。仮に十分な武器があったとして、君はこのイザベルの体を傷つけられるかね? 逆に……」


 探偵の左腕が、ありえない方向にねじり曲がった。彼の腕の中の悪魔どもが、魔王オズブムこそが己の主と知り、探偵の意志を離れ反逆したのだ。鋼の爪を伸ばし、自らに襲いかかる左腕を、慌てて右手で抑えつける姿は、コメディアンの一人芝居を見ているようだった。


 「君の腕の中にいる者は余の配下だ。さすがに君自身を支配はできないが、軍門に下らせるのは容易い。生殺与奪は余の手の中というわけだ」


 一人芝居が収まった。探偵は疲れ果てた様子で、椅子に腰を下ろした。義兄の形見のピストルを握り締め、こめかみに銃口を押しつける姿勢で。むろん、彼の意思に反して左腕の悪魔が勝手にやっているのである。


 それでもなお、魔王オズブムを睨む探偵の視線の強さは変わっていない。


 「まだ抗う気かね?」


 「人間には知恵がある。必ず貴様を倒す方法はあるっ……」


 「いいだろう、いくらでもさかしらに抗いたまえ」魔王が小さな指をパチンと鳴らすと、探偵の左手は自由になった。「だがな、いかな勝負を挑んだところで、死に至らしむる敗北を余に与えぬ限り、余が人類の駆逐をあきらめる理由はない。そして余は不死身だ。どうだねこの矛盾は。くっくっく……」

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