第16話
「帰りは普通に出てきゃいいから」
みなが別れを告げ、飛鳥さんの家を出て、蛍光灯に照らされた共用廊下をエレベーターホールに向かって歩き出したときだった。
「友納、ちょっと残れ」
僕だけ飛鳥さんに呼び止められた。
「おっとぉ? 二人っきりで何しようっての?」
「黙れクソ坊主。少し話があるだけだよ」
茶化す和尚を、飛鳥さんはギロリとにらみつけた。吊り目の飛鳥さんが本気で睨むと、かなり怖い顔になるのだが、和尚は悪びれる様子もない。
「まぁ、そういうことにしときましょう」
「うむ、我々は野暮というものだ」
桐原さんと勇が、未練がましくする和尚を引っ張っていく姿も、わざとらしかった。
「さっさと帰れ!」
飛鳥さんが怒号を背中に投げつけても、まるで気にする様子もなく、桐原さんの「怒られちゃった~」とどこか嬉しそうな声とともに、三人はエレベーターホールへ消えていった。
三人が去ってしまってから、飛鳥さんは、共用廊下の柵に身をもたせかけた。僕もそうした。もちろん越えられる高さではないが、越えれば二一階から真っ逆さまの、奈落の手前。これも、地獄の釜の蓋が開いているとか、いうんだろうか。
地獄の釜の縁に、飛鳥さんと並んで立っている。夜になって、部屋着のままの飛鳥さんは、少し肌寒そうにしていた。
こうして真横に立つと、飛鳥さんがごく標準的な女子の身長であることを思い知る。僕の肩ほどしかない。一五センチも背の低い、魔王。
「あいつらが、友達、かぁ……」
飛鳥さんは大きく息をつき、言葉をコンクリートの床に落とした。
「なんか、やりにくくってしょうがねぇっての……」
「愚痴ってどうすんの? 魔王様」
「まー、そうなんだけどね。もう、起きちまったことなんだし」
飛鳥さんは、一度大きく伸びをして、ぶるっと身震いすると、また柵に身をもたせかけて、今度は腕を組んだ。
「少なくとも、あいつらにアルガレイムの記憶はない。世界のしくみが狂ったわけじゃなさそうだ。それは安心した。でもだったら、なんでこんなことになったのか、なおさらわからないんだ。……どう思うよ? アルガレイムで見てて、何か気づいたこととか、ないか?」
「僕にだってわからないよ、あんなのたぶん初めてだったんだし……ただ、さ」
「ただ、……何?」
「友達ができて、いやなの? わりと楽しそうにやってたように見えたけど」
飛鳥さんは、困った顔をした。あんたはいつも、やりにくい方向に切り込んでくるなぁと、表情が言っている。
「……魔王やってると、友達とつるむとか、あんまり考えらんないからなぁ……つーか、ぶっ殺した相手が友達になるとか、ありえんでしょ」
「罪悪感? 目の前に死に顔がちらちら浮かぶ、とか……」
「それはない。殺すのはあたしのお仕事」飛鳥さんは言下に言った。「逆だよ、あいつらに入り込んだ魂から見れば、あたしは憎い
「そんなふうに考えなきゃいいんじゃないの? 友達であるより先に、みんな魔王の手下だと思いなよ。そうしなきゃいけないんだって、自分で言ってたじゃないか」
「まぁ、そうだけど」
「四天王を倒したやつばらを、おまえらできるなっつって、新たな四天王に籠絡したのさ。面従腹背で、魔王の命を狙ってる手下ってのは確かにいそうだけど、でもそういうのって、たいてい下克上には失敗するよね」
「なるほど?」飛鳥さんの顔に、唇の端をねじ曲げたいつもの笑みが戻ってきた。
「それに、さ───」
僕は、まっすぐ前を見た。視界には、飛鳥さんの家がある。狭いポーチ。玄関。向かって左の磨りガラスの窓が、彼女の何もない部屋。
「飛鳥さんはさ、殺した人間の魂が入り込むことで、現実世界が良くなると思えばこそ、魔王をやってるんだよね。ことに、勇者の魂はこの世を大きく変える力を持っている。……その魂が身近にいてくれるっていうなら、飛鳥さんはこれから、さらなる素晴らしい世界の変化を、目の当たりにするんだよ」
「そっか。……確かに、そういうしくみだって理解していても、実際に変化を体感したことって、今まであんまりなかったな。……そっか。これが世界の変化か。良いか悪いかはまだよくわかんないけど、こうやって世界は変わるのか」
「きっと、良い変化だよ。これからもっと良くなっていく」
飛鳥さんは小さく頷いて、彼女なりに納得したようだった。
と、「ちょっと待ってろ」と言って、彼女はいったん家の中に入っていった。すぐに、缶コーヒーを二本持って、戻ってきた。暖かくも冷えてもいない、室温のままだった。
「やる」一本を僕の胸元に投げ込んだ。「開けな」
言われるままに、僕はプルタブを引いた。
「たぶんさ、あんたもそういう、世界の変化の一部なんだろうね。あんたの役割が何なのか、何で魔王のあたしと関わっていられるのか、ホントよくわかんないんだけどさ───その気があるんなら、あいつらだけじゃなくって、あんたも手下にしてやる。魔王の参謀だ。どうだい? 受けるなら、こいつで固めの杯といこう」
飛鳥さんはニヤニヤ笑いを満足げに浮かべながら、缶の上部をつまむように、ひょいと持ち上げた。
「拝命します、閣下」
僕も同じように缶を持ってみた。
「ん。……変わりゆく世界に、乾杯」
マンション二一階の共用廊下の蛍光灯の下、僕らは顔を見合わせて、軽くスチール缶の底を打ち合わせた。こん、と柔らかい音が、眼下で駆け抜けていく新幹線の音に重なった。
室温のままのコーヒーに口をつけながら、飛鳥さんをふと見た。
彼女はまるで、冬に暖を取るときのように、コーヒー缶をぎゅっと両手で握りしめていた。───それから、顔をそらしてふっと白髪をかき上げた。
表情を隠すためのそぶりだと気づいた。その向こう側で、いつものニヤニヤを消して、彼女は、そっと微笑んでいた。本当にかすかで、他の人に当てはめれば笑ったうちに入らないようなものだったけれど、心からの幸福感に満たされた飛鳥さんの笑顔を、僕は初めて見たのだった。
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