第31話

 そして―――。


 しばらく二人とも黙々と食事をし、


 「ごちそうさまでした」


 飛鳥さんが小さく手を合わせた、そのときだった。


 僕の向かい、飛鳥さんの背後の窓に、誰かが急にぬっと姿を現した。―――南向きの窓で逆光となり、顔はわからない、だが何か、大きなものを持っている。影の黒さに、ヤバい、と直感した。


 「飛鳥さん、危ない!」


 僕は机越しに飛鳥さんの腕をつかむと、思い切り横へ引き倒した。


 次の瞬間、


 ガシャァァァァァン! 耳をつんざく音とともに窓が割れ、飛鳥さんが座っていた席に、コンクリートブロックが転がった。冷たく重々しい塊に、傷つける意図は明白だった。


 あいつらだ。オークキングどもの仕返しだ。竜崎先輩も勇もいないときを狙ってたんだ。窓の外を見た、が、もう犯人は逃げていて人影はなかった。追いかけるべきか―――いや、捕らえたところでどうせ下っ端だ。意味はないだろう。


 「まずい。逃げるぞ。あたしが合い鍵使って入ってたのがバレる方がまずい」


 一方で飛鳥さんは、ガラスの破片が散らばる机の上から弁当箱とスマホを回収し、鞄の中に放り込んでいた。その時彼女が一瞬顔をしかめた気がしたが、気にしている余裕はなかった。


 「あいつらは無人の部屋の窓をいたずらで割った。そういうことだ。いいな?」


 飛鳥さんは鞄をひっつかみ、エアコンを消し、僕の手を取って部室を飛び出すと、鍵を閉めていっさんに人のいない方へ駆け出した。本校舎へつながる渡り廊下からは、何の音だ?! と誰か駆けつけてくる気配がする。間一髪、教師らが視聴覚室前の廊下に姿を表す前に、僕らは階段の陰に身を潜めた。





 遠回りして一―B教室へ戻る間、飛鳥さんは僕の手を固く握ったままだった。けれど途中で、ぬるりとした感触があって、僕は思わず手をほどいた。見ると、手が血に濡れていた。さっきのガラスの破片で切ったのだろう、飛鳥さんの手首と指先から、血が滴っている。


 教室に戻りついたとき、その傷を目ざとく見つけたのは、桐原さんだった。


 「ちょっとさくらちゃん、どうしたの?! 大丈夫?」


 「大丈夫だこれくらい、気にすんな」


 「何馬鹿なこと言ってんの! とにかくこっち来る!」


 彼女は飛鳥さんの肩をつかみ、教室のほぼ中央にある自分の席に座らせると、救急セットを取り出した。こないだ使ったばかりなのに、きっちり補充されている。……使用頻度が高くて、何だか申し訳ないな。


 桐原さんの剣幕に押されてか、飛鳥さんはおとなしく手当を受けた。割れガラスがつけた小さな切り傷の痛みに、少なからず顔をしかめていた。この世界では女子高生に過ぎない魔王の限界を、あらためて思い知った。


 と―――廊下がざわついた。


 オークキングが現れたのだ。取り巻きを何人も引き連れて。


 一年の教室が並ぶこの辺りに、三年生の姿はまれだ。まして評判の悪い先輩が、手をポケットに突っ込んで、肩を丸めて、群れをなしてのしのしとやってくるとあって、みなは一様に脇に避けた。海が割れるように道筋ができる様を、オークキングは満足気に眺めていた。


 やがて、一―B教室の廊下側の窓に、彼は姿を見せた。窓枠にもたれかかって教室を覗き込み、飛鳥さんを見つけてほくそ笑む。


 「おい、ポーカー部。どうしたよ」


 飛鳥さんは、席に座ったまま、顔を伏せて黙っていた。……一ヶ月も顔を合わせていればおおむね分かるが、飛鳥さんは黙っている方がよほど機嫌が悪い。


 「どうした、その手?」


 「……窓で切ったのさ」


 「そぉかぁ、気をつけろよぉ、割れたガラスは危ないからなぁ」


 わざとらしく言うオークキングを、飛鳥さんはぎろりとねめ上げた。


 「……『ガラスが割れた』、とは言ってない」


 「だから何だ。俺が割ったとでも言うのか? 証拠はあるのか?」オークキングはしらばっくれた。「人を疑うのはよくねぇなぁ」


 「そうか」飛鳥さんの声は、深い水底から泥が湧き上がってくるようだった。「証拠がなけりゃあ、何をしてもいいんだな」


 一―B教室は、水を打ったように静かになった。昼休みだのに、さっきまでおしゃべりに興じていたクラスメートたちが言葉もない。オークキングの不快極まりない態度を怖れたためだが、同時に、飛鳥さんの口調に含まれた棘にも、ヤバさを感じとっていた。


 オークキングにはそれがわからない。飛鳥さんがおとなしく座っているままに見えているらしく、へらへらしていた。自分が脅しつければ相手が黙る、いつもの状況を作ったと思い込んだようだった。


 「こないだの威勢はどうした、えぇ? 竜崎がいなけりゃ、そんなもんかよ」オークキングは、誰かの権威に寄っかかっている自分のことは棚に上げて言い放ち、えへ、えへ、えへと、くぐもったいかがわしい笑い声を重ねた。「わかったかてめぇ、もうフツーに学校生活やってけると思うんじゃねぇぞ。俺の手足がいつでも見張ってるからな―――この俺に楯突いたりしなきゃよかったのになぁ、えぇ、馬鹿女が」


 勇が憤然と立ち上がりかけたが、和尚が制した。飛鳥さんが、顔を伏せたまま、ゆるりと立ち上がったからだ。


 「『この俺に楯突く』、だと? ふざけるな―――誰に向かって口を聞いている。魔王・・だぞ。オークキングの分際で、つけ上がるのもいいかげんにしろ」


 手首に巻かれた包帯に、血がにじんでいる。血が止まらないのは、傷が深いのか、たぎるほどの怒りに身を震わせているからか。けれど顔からは血の気が引いて、どす黒く闇が覆っているかに見えた。


 「おまえがあの部屋から消えて、あたしから見えないところにおとなしく引っ込んでりゃ、誰が泣こうが学校がどうなろうが知ったこっちゃなかったが、もう許さん」


 そのまま、ゆっくりと顔だけをオークキングに向けた。青ざめているのに、目だけが血走っていた。あんな表情、見たことがない。


 「おまえはあたしを怒らせた。魔王の逆鱗に触れて、ただで済むと思うな。報いを受けろ、行き先は地獄でも生ぬるい」


 オークキングが気圧けおされて、窓枠から身を離したのが見て取れた。


 ―――そのとき、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。ラウンド終了を告げるボクシングのゴングのようだった。オークキングは肩をそびやかし、えらそうな態度のまま去っていったが、ゴングに救われたのはオークキングの方だった、と僕は思う。

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