第39話

 六月に入り、梅雨入り間近で、雲が低く垂れ込める日だった。午後は雨になるから傘を持っていきましょうと、朝のお天気お姉さんは促していた。蒸し暑い日がこないだから断続的に続いていて、その日はとりわけ暑かった。みなすっかり夏服に切り替わり、空調のない一般教室はどこも窓が全開だった。


 三年生の教室は北校舎二階だ。つまり、一年の教室がある南校舎廊下側の窓から、中庭を挟んで三年生の教室が見通せる。三時間目が始まるチャイムが鳴ったとき、飛鳥さんは僕と射水さんを従えて、オークキングのクラスのちょうど真向かいに陣取っていた。


 その教室では、グラサンの数学の授業が始まっていた。グラサンとはその二つ名の通り、いつもサングラスをしている教師だ。その面構えゆえ、誰もが初見ではラフな感性の持ち主かと思い込むが、実態は学校一の几帳面で、冗談が通じない。生活指導も担当しており、一般生徒からは非常に怖れられている。もっとも、飛鳥さんの奇行も、オークキングとその取り巻きの横暴も止められない、その程度の威厳なわけだが―――。


 彼はまた、授業開始を一分たりとも遅らせない律儀さで知られている。対して僕らはこれから選択体育だ。着替えをはさむ上、四クラス合同という規模の都合上、授業開始は遅れやすく、五~六分程度は教師陣も出てこない。この五分が僕らのアリバイとなる。


 さっさと着替えを済ませた後、射水さんのM16を隠して廊下の柱の陰に立って待った。チャイムが鳴って、さらに一分強。この廊下に面する四クラスの生徒がグラウンドと体育館へ出払って、辺りは静まりかえる。他のクラスの生徒は教室へと戻り、逆に、時間厳守のグラサン以外の教師は、職員室から教室へはたどり着いていない―――それくらいのタイミング。


 「いいか、飛鳥?」


 「さっさとやれ。時間がない」


 「了解」


 今回は体操服とアサルトライフルというこれまたマニアックな組み合わせの射水さんが、素早くM16を構え、オークキングに向けて引き金を引いた。今回はサイレンサーつきで、ぷしゅ、という発射音―――思ったより音は大きかったが、幸い、聞こえた者はいなかったようだ。


 中庭の向こう、グラサンが出席を取っている教室の最後方の座席で、椅子を後ろに傾けて壁に寄っかかっていたオークキングが見事に吹っ飛び、激しく椅子が倒れる音がした。


 「あのアマァ、ぶっ殺してやる!」激昂してわめき散らすオークキング、だが、彼以外にはまったく影響なく狙撃に成功したから、グラサンや他の三年生たちには、彼が椅子のバランスを崩して倒れただけにしか見えないだろう。なぜ怒っているのかわからず周囲が唖然として見る中、オークキングは教室を飛び出した。同じクラスの取り巻きに向かって、こう叫んで―――。


 「おい、おめぇらも来い!」


 ―――だが、取り巻きは動かなかった。教室は、グラサンの数学が普段そうであるように、静まり返ったままだった。オークキングに従って当然、オークキングがしているから自分も流される、そんなふうにオークキングを行動基準にしていた雑魚オークどもが、ついに動かなかったのだ。


 和尚のかけた魔王の呪詛の効果だった。まして、今はグラサンの数学である。オークキングを基準にするのをやめたなら、一介の受験生に過ぎない彼らに、生活指導教師に逆らう選択ができようはずがない。


 「っくしょぉ!」


 クシャミみたいな悪態をついて、オークキングは教室を飛び出していった。……そこまで見届けて、僕らはその場から去り、体育の授業へ走った。射水さんはすでに、M16を目立たないサイズまで分解して、自分のロッカーに放り込んでいた。


 体育は男女別だから、後で桐原さんに聞いた話だが、オークキングは体育館の入り口に現れたそうだ。だが、バレーボールに興じる飛鳥さんを、独りきりでぼんやりと見ていただけで、一〇分ほどで姿を消してしまった。



 そして―――体育を終えて戻ったとき、僕らの一―B教室はめちゃくちゃに荒らされていた。


 机、教卓、黒板、ロッカー、あちこちに金属バットか何かで殴ったへこみがあり、私物もいくつか壊されていた。オークキングによる、衝動的な八つ当たりであることは明白だった。


 四クラス合同体育のさなかだったから、目撃者はいなかった。けど、警察を呼びましょうといきり立っている城市先生を、他の教師たちがなだめているのが見て取れた。彼らにさえ、誰がやったかはわかっているのだ。


 起きた事実のひとつに、飛鳥さんはひどく顔を歪めた。とりわけ荒らされていたのは、『桐原さんの』席だったのだ。筆箱や、例の救急セットが、粉々になっていた。


 なぜ桐原さんか―――それは、彼女がポーカー部員であることとはあまり関係がない。オークキングに啖呵を切ったとき、飛鳥さんは教室ほぼ中央のこの席に座っていた。オークキングは、ここが飛鳥さんの席だと勘違いしたのだろう。


 「ごめんな、はるこん。あたしのせいで」


 「いいよそんな、さくらちゃんのせいじゃないよ!」


 その後、飛鳥さんはしばらく黙っていた。


 壊れた机を入れ替えたり、飛び散った破片を掃除したり、応急的に直すところは直したりで、四時間目はつぶれ、そうこうするうちに昼休みになって───。


 「ちょっと出てくるわ、あたし。あんたら、メシ食ってろよ」


 飛鳥さんはそう言って、ひとりで教室を出ていった。


 まるでトイレにでも行くような自然なそぶりだったが―――その背中がやけに苦しげに見えて、僕は思わずその後を追っていた。




 雨がしとしとと降り始めていた。外はひどく薄暗く、廊下には蛍光灯が点っていた。昼休みだのに、人通りはやけに少なく感じられた。


 「どこ行くの」


 「あんたは知らなくていい」


 「参謀にも言えないこと? ―――いや、わかるよ。オークキングとけりをつけにいくんだよね。なんでひとりで行くの? これまでみんなで立ち向かってきたんだ、今回もそうすればいい」


 飛鳥さんは答えなかった。


 「『我自らが出る』、って? こないだ、『絶望する顔が見たいからオークキングを殺さない』、とも言ってたよね。魔王の死亡フラグ、積み重ねてないかい? 心配だよ」


 北校舎へ向かう渡り廊下に差し掛かって、飛鳥さんは一度足を止めた。蛍光灯がいくつか切れかかって、ちかちかと点滅していた。その下で、彼女はふっとてのひらを見た。包帯はもう取れているが、あのときガラスで切った傷痕が、まだ赤く残っていた。


 「決めてたんだよ。せめてトドメはあたし自身で刺そうって」彼女はそう言った。「部室が欲しいっていうのも、オークキングを倒すっていうのも、全部あたしの身勝手で、あたしが片付ける問題のはずなんだからさ。死亡フラグでも何でも、ラストにバトるのはあたしだけでいいんだよ。わざわざ巻き込まれに来なくたっていいんだ。恐ろしい魔王の悪の企みに、最後までつきあわなくたって」


 「恐ろしくても、近づいていくよ。引き寄せられて、燃え尽きたいと思ってしまうんだよ。そう思えるのが、魔王じゃないのかな。そういう魅力が、飛鳥さんにはあるよ」


 飛鳥さんは、頭を掻いてうつむいた。弱った蛍光灯が長く消え、あたりが妙に暗くなって、表情はうかがい知れない。


 「あんたには、ついてくんなって言いたい気持ちと、」ぽそりと口にした。「……一緒にいて欲しいって気持ちが、両方ある」


 「僕は、君の世界に関わるって決めた。ついてくんなって言われても、ついていく」傷跡が残る彼女の手を、そっと握りしめて、僕は言った。


 「馬鹿だな」飛鳥さんは、一回だけぎゅっと握り返して―――ぱっと離した。「あたしひとりでやる。決して手を出すな。後ろにひっこんでろ。それでもよけりゃ、ついてこい」


 その後は、胸を張り、力強い足取りで進み始めた。渡り廊下を越えて、北校舎へと。



 ―――飛鳥さんは気づかなかったようだけれど、渡り廊下の入り口で、他にも誰か後を追ってきて、こちらの様子をうかがっているのに、僕は気づいていた。


 今の飛鳥さんは、何を考えているのか、およそお見通しになっているのだ。

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