第51話

 ひっ、と、のけぞって、探偵が椅子から落ちた。ガタンと大きな音がして、その音にさえすくみ上がる。かわいそうに、勝負に勝てば、という一縷の希望にすがればこそ、彼は恐怖に耐えられたのだ。それが断たれた今、彼の顔から、これまであった冷静さは消え失せていた。


 「逃がさぬよ」


 魔王オズブムの姿が再び変容を始めた。魔王オズブムの、最終形態である。


 ぬめぬめとした体表面が鈍い音とともに膨らみ、巨大な球体へ膨れ上がっていく。


 中にいたイザベルの頭部が再び体表に姿を表した。むろん、人形のようだった可愛らしい容貌は面影もない。火傷のようにただれた肌、ギョロギョロ剥き出しの眼球、牙だらけの口で、ウケケケケッ、と探偵を嘲笑った。


 ぼぐりっ、と球になった腹が大きく凹み、大穴が空いた。中では、何かが渦を巻いていた。魔界へ通ずるゲート、魔王オズブムはそれを、自分の体内に作ることができるのだ。



 光さえ吸い込むブラックホールのごとくに、ごぉう、と音を立てて、あらゆるものが吸い込まれていく。さっきまで座っていた椅子が、暖炉の薪が、そしてテーブルの上にあった写真立てが、くちゃくちゃに砕けながら闇に消え失せていく。僕の、つまりエボフの体に何の影響もないのは、魔界の住人だからだろうか?


 探偵が尻込みして、逃げ出した。敗北という結果から、ではなかろう。目の前に現れた恐怖に耐えきれず、本能的に背を向けたのだ。


 扉まで這いずって、ドアノブをガチャガチャと音を立てて回す。扉はさっぱり開かなかった。もとより建付けが悪かったのであろうが、それ以上に、扉の開け方すら覚束なくなるほどに彼は錯乱していた。


 ―――ほんのしばらく、間があった。ごぅごぅと、部屋のものが吸い込まれるだけの時間があった。飛鳥さんが何も動かなかったからだ。最終形態になった自らの体をうまく動かせないように見えたし、―――ためらった、ようにも見えた。


 その間に、僕の体が勝手に動いていた。探偵の襟首を掴み上げ、耳元でささやいた。


 「逃げるのはよくないな。素直に負けを認めたまえよ」


 あぁ、いま僕は、人間じゃない。深海の邪王エボフなのだ。成人男性ひとり分、七~八〇キロはあろうという体が、片手でやすやすと持ち上がる。僕は、さっきまでカードを捌いていた白手袋の手の上で、ボールを扱うように探偵の体をくるくるともてあそぶと、オズブム最終形態の、腹に渦巻くブラックホールの中に、容赦なく放り込んだ。


 がっと、手を掴まれた。探偵が、吸い込まれまいと、みっともなくあがいたのだ。


 「あぁぁ、いやだ、いやだ、いやだ!」


 賭けの結果は関係ない。ただ死にたくないと本能が口に出させる、引き絞る悲鳴。


 「ダメだ、こんな結末は、あっちゃダメなんだ」


 「往生際が悪いぞ」そう言ったのは、僕だ。「これが結末だ、すべて終わりなのだ。魔王が勝利し、この物語にはもう、続きも、意志を継ぐものも、安らかな眠りもありはしないのだ」


 「そんなはずはない。魔王が倒されるまで、物語が終わるはずがない。そんな世界は、魔王が居続ける世界は、あぁ、あぁ、ぁぁ、ぅわああああぁぁ……」


 渦の吸引力が探偵の握力を上回り、掴んでいた手がすっぽ抜けた。探偵の姿は、漆黒の渦に吸い込まれ、たちまち小さくなっていき、やがて豆粒となって消えた。もう、悲鳴も聞こえない……。


 静まり返った部屋に、遠くから何かが壊れる轟音が伝わってきた。続いて複数の悲鳴。どこかでバリケードが突破され、悪魔に冒された人喰らいどもが雪崩(なだ)れ込んできたのだ。もう、ポートハワードに安全な場所はない。早晩、悪魔たちの、つまりは魔王オズブムの支配下に落ちるだろう……。




 「お疲れ。ディーラーさんきゅ、友納。なかなかうまかったぞ、感心した」


 薄曇りの屋上に戻ってきたとき、飛鳥さんは、まるで実りある仕事をやり遂げたとでも言わんばかりに、楽しそうだった。そして、「あんがとな。また明日!」少しはにかみながら、ランニングを続けるふりをして、エレベーターホールへ駆け去っていく。


 僕は慄然とした。


 したことの是非についてではない。彼女の場合、その指針はどうしようもなく狂っているし、僕もそれについていこうと決めている。


 彼女は、僕が「異世界」に干渉できたことを、当然のように受け入れたのだ。むしろ歓んでさえいる。僕が「異世界」にいること自体、異常事態だったはずなのに、どうして。


 その場に取り残された僕は、考える。


 少しずつ、わかりかけてきた。


 僕が体験しているできごとの意味、ここにある現実、世界のしくみ。


 そして、僕の役割が、何なのか。

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