第40話
オークキングは、教室の自分の席に座っていた。だが、いつものようにふんぞり返ってはいなかった。両手を膝につき、強く顎を引いてうなだれ、大きく目を見開いた視線は床に釘付けのまま、ふーぅ、ふーぅと、荒い息をこぼしていた。
どこから持ち込んだのかは知らないが、そばに金属バットが転がっていた。あちこちへこんでいる。間違いなく、僕らの教室を破壊するのに使ったのだ。
異様な姿に、元取り巻きを含めたクラスメートたちも、遠巻きにして様子をうかがっている。飛鳥さんは、そんなオークキングに、いつものニヤニヤ笑いを作って、廊下の窓から呼びかけた。
「よーぅ、オークキング」
オークキングははっと顔を上げ、すぐに目をそらした。飛鳥さんに恐れおののくあまり、どっと汗が噴き出し、手がびくびくと震え出したのが見て取れた。
今や学校中の話題となった、魔王とオークキングの対面だ。すぐに話が広まり、たちまち廊下に人だかりができはじめた。
飛鳥さんは、以前オークキングがしたみたいに、教室の廊下側の窓枠に身をもたせかけ、教室内を覗き込むようにして言った。
「あたしらの教室で、ずいぶん暴れたみたいじゃないか。ずいぶんお疲れに見えるぞ」
「しょ、しょ、しょうこはあるのかよ!」いきなり証拠の有無を問う時点で自白も同然だが、それでも、そこが彼の最後の砦だったろう。都合の悪い事実を自分から切り離す、それさえできれば、心の安寧を保てるはずだと。
だが、
「あるよ」
飛鳥さんはさらりと言い放った。
そして、ポケットからスマホを取り出し、画面上に、ある動画を再生し始めた。
「この映像をどう扱うかは、あたしの胸三寸だ。警察に届けると息巻いてるうちの担任に渡したら、どうなるかな」
その動画とは―――監視カメラの映像だった。勇に依頼したカメラだ。体育の授業中、無人の一―B教室を撮影し続けていたのだ。
画面の中で、誰かが金属バットを振るっていた。実のところ、あまり鮮明ではなかった。白黒で、解像度は粗かった。教室全体を広角レンズで捉えており、被写体はひどく歪んでいた。体格のいい男子生徒が暴れているのはわかるが、個人の特定は難しいものだった。
実はもう一台、近距離で鮮明に撮るカメラもあった。けれどそれは、窓際の飛鳥さんの席を狙っていて、何も映っていなかった。飛鳥さんは、証拠と呼べるか怪しい不鮮明な動画で、勝負に出ざるを得なかったのだ。
だが、効果はてきめんだった。
不鮮明でも、身に覚えがあれば、自分の姿だと認識してしまうのだ。自分の罪業を、いやでも自覚してしまうのだ。
オークキングはがばと立ち上がり、二歩、三歩、吸い寄せられるように近づいてきて、スマホの画面を凝視した後、がくと膝をついた。
「お、おまえらのせいだ! おまえらが……その……俺を、撃ったり、何か、その、しやがるからよぉ!」
「それこそ、証拠はあるのか」この期に及んでなお、他人のせい、を口走るオークキングに、飛鳥さんは言い放った。「いいかげん、あきらめろ。魔王を貶めた罪を知れ。おまえの居場所はもうない。付き随う者もいない。身ひとつの今のおまえに、いったい何ができる?」
飛鳥さんは教室に入り、オークキングに歩み寄った。腰が砕け、身をがくがくと震わせ、床に尻をべたりとつけたまま後ずさるオークキングに、冷ややかな視線を投げかける。
体格差など、もはや関係ない。オークキングはおそらく今、どす黒い巨大な魔王の幻影を、飛鳥さんの背後に見ているだろう。
「おまえにある選択肢はわずかだ。ひとつめ。ひれ伏せ。これまでの非礼を心から詫び、魔王に忠誠を誓うんだ。今後一切、あたしに
飛鳥さんはもう一歩近づいた。オークキングは脂汗をだらだらと流し、がちがちと歯の根も合わぬ有様で、近づかれただけ後ずさる。
「ふたつめ。それができないなら、自裁しろ。腹を切れ。それが世界にとって最も有益な選択だ。おまえ自身にとっても、これ以上苦しまずにすむ、最良の選択だよ」
「―――て、てめぇは、……何者だ」
追い詰められたオークキングが、合わぬ歯の根の隙間から、どうにか声を絞り出して尋ねた。飛鳥さんは、その声を踏みつぶすようにもう一歩前に出た。
「言わなかったか? あたしは魔王だ。オークキングごときが逆らって、無事でいられる道理はないんだよ」
オークキングはまた後ずさった。転がったままの金属バットが、彼の手に触れた。
「みっつめ。これが最後の選択肢だ」
飛鳥さんはそこで足をそろえた。それ以上、前には出なかった。
「カッコいい言葉で言ってやるよ。―――戦え。運命に抗え。立ち向かえ、力を示せ、己の敵に!」
オークキングの息が、また荒くなってきた。ふーぅ、ふーぅ、ふーぅと、肩を上げ下げしている。その肩を撫でつけるような声で、耳に言葉を流し込んでいく。
「理性などかなぐり捨てて、限界を、踏み越えろ。自らを遮る壁を打ち壊せ!」
オークキングの頭が、催眠にかかったように、ゆらゆらし始めた。その瞳から、彼自身の意志は、消え失せていた。
「さぁ」
オークキングは、金属バットをつかみ、それを杖にして、ゆっくり立ち上がった。体格差が再び現れた。巨大なオークキング。ちっぽけな飛鳥さん。
「やれよ」
頭が揺れている。足下が、ふらついている。よだれが、だらしなくこぼれ出す。それでも、太い両腕で、バットを強く、強く握りしめた。
「自分の世界を、破壊するんだ」
オークキングが、キレた。いや―――壊れた。
「う……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
金属バットを、力の限り振り上げた。理性のブレーキを完全に失い、目の前にある不都合なもの、恐ろしいものを、ただ消し去ろうとしていた。それはつまり、飛鳥さんを―――。
「飛鳥さん!」
彼女にとって、オークキングとけりをつける、という行為の真の意味が何なのか、教室を出るときなぜあんなに苦しそうだったのか、僕には見当がついていた。わかっていてここまでついてきたからには、バットが怖くても、決して手を出すなという命に背いてでも、せねばならぬことがあった。恐怖に打ち勝ったのは、忠誠心だったか、それとも。
僕の体は、自分でも驚くほど、自然に動いていた―――手近な机から学生鞄をひとつ掴み取ると、オークキングと飛鳥さんとの間に、割って入って立ちはだかった。
「な……馬鹿!」
飛鳥さんが目を見開いた。
金属バットが、振り下ろされる。迫るバットがスローモーションに見えた。
こんな薄っぺらな鞄が盾になるだろうか。僕は脳天をかち割られるんじゃないだろうか。だけどこれは飛鳥さんじゃなく、僕の役目だ。この結末を、飛鳥さんが選んではいけないんだ。
僕は、歯を食いしばって来るべき結末を待ち受けた。
次の瞬間―――。
吹っ飛んだのは、オークキングのほうだった。
ホウキと傘が、一閃していた。
飛鳥さんの意図を察して、割って入ったのは、僕だけではなかった―――渡り廊下からずっとついてきていたうちのふたり、勇と桐原さんが、教室に飛び込んできていた。勇が傘をつかんで唐竹割りに、桐原さんがホウキをつかんで胴薙ぎに―――まるで、アルガレイムでゴルマデスに対して食らわせたようなコンビネーションで、斬り伏せたのだ。
オークキングは、ただの一撃で、教室の床に大の字に倒れ失神した。虚飾をすべて剥がされた豚の王など、元勇者どもの前に、敵ではなかった。
床に落ちた金属バットがからりと転がり―――しばらく、沈黙が支配した後。
廊下で、魔王対オークキングの直接対決を見守っていた生徒たちから、おおぅと歓声が挙がった。魔王、勝利す。オークキング、成敗さる。ニュースは、顛末を記録した動画と喜びの声を伴って、各自の情報端末を通じ、またたく間に全校に広まった。
だが、勝利したはずの飛鳥さんは―――、まったく喜んでいなかった。それどころか、顔面蒼白となって、立ち尽くしていた。
「飛鳥さん?」
「なんてことを」
「え?」
「詰めを誤った。あたしのミスだ。これは―――まずい方向に、転がるぞ」
窓の外では、梅雨の始まりを告げる雨が、蕭然と降り続いていた。
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