第70話

 一泊二日たっぷりと葉山の海で遊んで、日曜の昼。


 あとひと泳ぎしたら帰ろう、となって、みながビーチ遊びに繰り出す中、僕と飛鳥さんだけは、少し南に離れた浜辺の、防波堤の上に作られた公園で、海を臨むベンチに腰掛けていた。……ふたりきりだ。


 水着にパーカーを羽織った飛鳥さんは、ひどく居住まいが悪そうにしていた。いつか見たサンバイザーで表情は隠れて見えないけど、うつむいて、肩をすくめて、魔王の片鱗もない。


 「誘いに乗ってくれて、ありがと」


 「だって、その、はるこんもりゆりゆも、なんか先生まで、行け行けってうるせぇし……」


 しばらく、ふたりして黙って海を眺めた。潮騒が、ざざぁざざぁと聞こえてくる。潮の香りにはもうすっかり慣れて、あまり感じない。


 天気が良ければ、相模灘の向こうに富士山が見えると射水さんは言っていたが、昨日今日は空は晴れているが地表近くはもやめき、水平線は白く濁っていた。


 気温は三〇度を超えていた。空気は乾いていたが、飛鳥さんのうなじを滴がひとつ流れ落ちたのは、汗だったか、濡れてまつわる髪がたたえる海の名残りだったか。


 「……なんか言えよ」耐えきれず沈黙を破る飛鳥さんの唇───最近は、海でも使えるリップパックというのがあるらしい。


 「何を言って欲しい?」


 「訊くなよ、そんなん」


 「じゃあ」僕は思ったことを率直に言った。「水着の飛鳥さん、すごくかわいい」


 「……そういうんじゃなくてさ!」


 飛鳥さんは僕の頭をひとつはたくと、水着を選んだのは自分じゃないと言い訳した後に、射水さんの背の高さやら桐原さんは実は着やせで隠れ巨乳な話やら、先生などは水着に着替えてもいない駐車場から陸サーファーに言い寄られていたなどと、ひがみみたいな話題を並べ始めた。


 飛鳥さんは、少なくとも僕の目にはスタイル抜群だが、魔王たらんと自ら鍛えて得たものであるからして、元勇者どもが持つ天賦の規格外の前には、相対的に貧相に見えてしまう。……男性陣における僕なんぞはもっと見劣りするわけで、口に出せるだけマシだと思うが、言わぬが花だろう。


 一通りまくし立てるのを聞いた後、僕は努めて穏やかに尋ねた。


 「要するに、すごく楽しかった、と?」


 図星を突かれて、飛鳥さんはぴっと背を伸ばすと、また照れながらそっぽを向いた。


 「……うん。みんなで海、って初めてだったし」


 「それはよかった。企画した甲斐があったよ」


 「……、ありがとな」


 飛鳥さんはそっぽを向いたままで、蚊の鳴くような声で言った。


 「あと……さ、オークキングのときも」ちょっとだけ、顔を振り戻して、上目遣いに。「守ってくれて、ありがと。ホントは、ずっと、言いたかった」


 「どういたしまして。でもそれは、桐原さんや勇にも言ってね」


 「もう言ったよ。友納が、最後だ」


 またそっぽを向いて、照れ隠しにサンバイザーの向きを直した。……ちらりと、部室のガラスが割られたときについた腕の傷痕が見えた。彼女はもう、その存在を忘れたかのように振る舞っていた。


 また少し沈黙があった。


 やがて耐えきれなくなったのか、視線をうろうろさせ始めた飛鳥さんが、海とは逆、防波堤の内側に目を留めた。


 「あれ、なんだろな?」


 見ると、何か催し物をしているのか、広場に子供が集まって、歓声をあげている。


 「行こ!」


 飛鳥さんが立ち上がり、自然に僕の手を引いた。温かくて、血の通った、命の証。




 そこにあったのは、移動動物園だった。簡素な柵で公園の一部を仕切り、家畜やペットになるごくおとなしい種類の小動物を展示していた。掲げられた入口のパネルは、「かわいいどうぶつたちとふれあいませんか?」と、すべてひらがなだった。入園料は不要で、自由に見て回ることができた。


 僕らが入るのと入れ替わりに子供たちの集団が出ていき、係員もその誘導かそれとも単にトイレか、姿を消した。いっとき、園内はふたりきりになった。


 ウサギ、リクガメ、尾の長いニワトリ、最大でせいぜいヤギかポニーがもさもさカイバを喰んでいる小さな園内で、飛鳥さんの目を引いたのは、モルモットが一〇〇匹近く群れをなしてもぞもぞうごめく金属製の檻だった。


 「すげー! 何この愚民ども!」


 「……動物園でそういう感想を漏らすのは飛鳥さんだけだよ、きっと」


 檻の高さは二〇センチほどしかなく、上部は空いていた。本来なら、係員がここから一匹ずつ取り出し、触ってごらんと子供たちに手渡すのだ。


 しかし飛鳥さんは、係員が見ていないのをいいことに、低い檻を乗り越えて中に飛び込んでいった。サンダル履きの魔王の闖入に、わたわたと逃げ惑うモルモットたち。踏んづけないよう避けながら、きゃあきゃあと声を挙げ、パーカーの裾を揺らして踊る飛鳥さん。


 「何だか、支配欲が満たされるな!」


 「そんなので?」


 「んー、まぁ、こんなので」


 飛鳥さんは嬉しそうに、にゃはは、と笑った。口を大きく開けて。八重歯がとてもかわいいのだと、初めて知った。


 「楽しい?」


 檻の外から、僕は飛鳥さんに尋ねた。


 「うん」


 彼女は、笑顔のまま強く頷いた。


 「前、モールで会ったときにさ、ジョギングの格好してたじゃない? そういうストーリー、まだいる?」


 続けてそう尋ねると、はっと一瞬笑みを消して、だけどすぐ明るい笑顔に戻った。照れて赤い顔を、もう隠そうともしなかった。


 「いらない。素直に言える。友納といると、ただ楽しいよ。こんな気持ち、初めてだ」


 それからまた、彼女はひとしきりモルモットと戯れて。


 僕はその楽しそうな姿を、ただ見つめていた。


 とはいえ、いつまでもそうしているわけにもいかない。そろそろ係員の戻りを気にしていい頃合だ。非道なるモルモット襲撃から飛鳥さんを引きはがし、僕は彼女の手を引いてその場を去った。




 場所は、元いた防波堤上の公園に戻る。


 日が傾き始めていた。薄くかかった海上のもや雲が朱に染まり、東から、夜を知らせる紫が近づいてくる。


 浜辺にまだいくらか残っている、水遊びの子供たちの声。ざざぁ、ざざぁ、と潮騒が伝わってくる。……けど、この公園にはすっかり人気ひとけがない。


 「……みんなのとこ、戻らなきゃ」飛鳥さんが言って、立ち上がった。


 夕陽に照らされながら、ふたり並んで、歩いた。帰りの集合場所である神社の方へ。他のみんなはもう、レンタルのバンの前で待っているだろう。だけど、その歩みは、遅々として進まない。


 「本当に、戻りたい?」僕は尋ねた。


 飛鳥さんはうつむいて立ち止まった。


 「ん……あんまり。もう少し、こうしてたい……かな。あんただけいてくれればいい、みたいな……」


 肌を、寄せてくる。パーカーの下の素肌。伝わる、体温。


 飛鳥さんの肩に、手を触れてみる。少し緊張しているみたい。


 僕がそのままじっとしていると、やがて飛鳥さんは、意を決したように、こちらを向いて目を閉じた。




 さて。

 ついにこのときがきた。




 僕は手の中に魔法の・・・ナイフを作り出すと、無防備の彼女の心臓に、一息に突き立てた。


 ざくりと肉が裂け、血の臭いが吹き上がる。


 おそらくは電撃のように体を貫いた痛みに、飛鳥さんの閉じていた目が見開かれる。水着とパーカーに拡がっていく、真っ赤なにじみを凝視する。


 「え……、な、これ……」


 飛鳥さんの体が崩折れ、膝をついた。


 「血? ……え……? 痛……痛い……」


 そのさまを見下ろし、僕は冷徹に声を投げ落とした。


 「まさか、魔王がハッピーエンドを迎えられると、本気で思っていたのかい?」


 冷徹に、事実だけを。


 僕自身も、校長との対決の日までは気づいていなかった……気づいていたとしても、否定したかった事実。


 「僕は、魔王だよ」


 僕だって、できるなら、いつまでもふたりでイチャイチャしていたいさ。大好きだよ、飛鳥さん。でも、大好きだからこそ、しなければいけないことなんだ。


 「勇者のいない世界で、魔王を倒せるのは、別の魔王だけ。それは、君自身がいちばんよく理解したはずだ。そして僕は、君という魔王を倒すためにこの世界に組み込まれた、魔王だ。そのことに、僕自身が気づかなきゃならなかった。気づくのに、こんなに時間がかかって、ごめん」

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