第5話

 そこは、アルガレイム大陸の北東部、バンギア帝国首都マーガスの、帝城の地下大空洞に秘かに築かれた、大聖堂の中だった。


 ───え、何だって?


 『見たこともない場所』じゃないのか。「ここはいったいどこなんだ!」が正しい反応じゃないのか。それに、ここは屋内だのに、なぜ地下だとわかったのだ。


 それでも、何もかもがわかっていた。


 目が、耳が、肌が、心臓が、頭脳以外のすべての器官が、初めて見る景色、初めて触れる淀んだ空気、地下なのに明るく照らされ、浮かび上がる陰影の不気味な感覚に圧倒されて縮み上がっている。でも頭の中には、すべての知識が並んでいた。


 僕は、地球という星の、日本という国の、神奈川県に住んでいる。それと同じように、アルガレイムという世界の、バンギアという国の、マーガス地下大聖堂に、今、いるのだ。




 大聖堂は、ヴォールトが組み合わされ、太いギリシャ風の柱に支えられた構造で、見るからにゴシック建築だが、装飾は平板で、描かれているのか貼り付いているのか、ともかく彫刻というには陰影に乏しい薄汚れた何かが、壁のあちこちに備わっていた。


 柱は苔むしていて、方々崩れ落ちているにもかかわらず、天井には歪みがなかった。床に椅子は備えられておらず、広間になっていて、おおむね石畳で舗装されていたが、目地のへこみが見当たらないほど滑らかだった。


 地下だのにどこから光を取り込んでいるのか、ステンドグラスがまばゆいほどに光り、カラフルな色を床に投げかけていた。それで十分な光量があるのに、壁一面に並んだ燭台には、大量のろうそくの炎が揺れている。


 つまるところ、ここは中世ヨーロッパ風の建造物の内部だ。けれど中世ヨーロッパとは違う。ありそうだけど、ありえないことばかりだ。この表現が正しいかわからないが、僕の感覚に照らして正確に表現するなら───『ゲームのビジュアルでしか見ることがないような』建造物の内部だった。


 しかも、僕らは、その床に立っているのではない。ステンドグラスの真下にしつらえられた円形の祭壇の直上、地上一〇メートルくらいに、炎色反応実験でもありえないような黒紫色の炎のゆらめきを伴って、宙に、浮いている。


 祭壇の下に、血まみれの男が這いつくばっていた。建物の入り口とおぼしきところから祭壇まで、血痕が点々と続き、どこかで手傷を負わされてからここまで逃げてきたものらしかった。


 男は、金糸やビーズの刺繍を施された裾の長い黒のローブを着、手には、杖頭に山羊の頭をかたどった、稲妻のようにいびつな形状の杖を持っていた。それは、アルガレイムに広く普及するアルガ真教において、異端の魔王崇拝で知られるイーブラ派の、黒司祭と呼ばれる指導者の持ち物であることを、僕はやはりなぜだか理解しているのだった。


 男は、杖を頼りにどうにか体を起こすと、祈るようにすがるように、黒紫色の炎に向けて手を伸ばした。


 「魔王様、魔王ゴルマデス様、どうかお出ましを! 我に……我が呼び声にお応えを!」




 ……いま何が起きているのか。懸命に状況を理解しようと努める僕を、飛鳥さんはじっと見ていた。探るような上目遣いで。


 飛鳥さんは、僕と同じように宙に浮いていた。僕も彼女も小杉南高校の制服姿のままだ。制服は似つかわしくない場所のように思えたけれど、飛鳥さんにとっては、その姿で幽霊のように漂っていることが、いつもどおりでさも当然、といった風だった。


 「ここはアルガレイムだ。わかるかい」


 僕は頷いた。


 「そうか、わかるんだね。世界知識が勝手に入ってきてうっとうしいだろうけれど、おかげで混乱しなくてすむのだから、我慢しておくれ。……もうひとつ質問。いま、何か為すべき役割を感じているかい」


 僕は首を横に振った。


 「そうか。……なら、ただ巻き込んでしまっただけなのか。何が起きるかわからんと思っていたが、こういうこともあるのか、初めて知ったよ」


 飛鳥さんはふぅむと首を傾げた。


 「以前似たようなことが起きたときは、相手は現実世界に置き去りだった。ずいぶん長いこと消えていたらしいから、ごまかすのに苦労したんだよ。もっとも、こっちにどれだけいても、現実じゃせいぜい一〇秒ってとこなんだが」


 「現実世界……」


 「ここはいわゆる異世界というヤツさ───平行世界、ファンタジーワールド、おとぎの国、表現は何でもいいけどね。まぁ、あたしが便宜上『現実世界』『異世界』と呼び分けているだけで、どっちも現実といえば現実に違いない」


 現実。これが……。


 建設が不可能としか思えない地下の聖堂も、宙に浮いていることも、今起きている出来事に僕自身が心の平衡を保っていることも、全部現実とは思えない。でも、現実なのだ。僕にははっきり覚醒している自覚があるし、目の前にいる飛鳥さんは、これが現実だと言っている。ならば、現実なのだ。


 「それよりあたしは、なんであんたが世界移動できたのか、それが不思議だ。気づいてなくても、何か役割があるのかな? そんな感じはしないんだけどね……」


 飛鳥さんは、宙を軽く蹴って───不思議と、空中でも簡単に移動できるのだ───近寄ってきた。そして、僕の頬に手を当てて、目の奥底をじっと覗き込んだ。


 「うーん───よくわかんないな。でも、赤ん坊はあたしの召喚に気づくそぶりを見せることがあるから、それと似たような感じかな。魂が赤ん坊のままだと、いっしょに召喚されてしまうのかもしれない。ふぅん……」


 触れた手の温かさにどきどきしてしまう僕は、その言葉をうまく受け止められず戸惑ったけれど、含まれたある聞き慣れない単語が、ふっと僕の思考を呼び戻した。


 「召喚……」


 「そう、召喚。あたしはこの世界に召喚されたんだ」


 「なんで」


 「あんた、あたしがどう見える?」


 「どうって、飛鳥さん。制服を着て、白い髪で……」


 「だろうね。じゃあ、」


 飛鳥さんは僕から距離を取り、おもむろに手を広げた。すると突然、何もかもが彼女の周囲に急速に集まっていくような、強烈な吸引力が生じた。


 「今は」


 僕も一時は吸い込まれそうになり、その力に懸命に抗っていたが……やがて逆に、勢いよく弾き出された。僕らの周囲に生じていた黒紫色の炎が、すべて彼女のもとに集まり、彼女を中心とした火球となって、火勢を著しく増しているのだった。僕は、その火球には入り込めなかった。


 火球は膨張し続け、飛鳥さんの姿を隠してしまった。まるで小さな太陽のようにフレアをもまとい、聖堂内の空間を満たして勢いよく燃え盛る。太陽と違うのは、黒紫の妖しい輝きを放っていることだ───やがて炎が生き物のようにうごめき始めた。火球の中に、飛鳥さんでない何かがいる。孵化直前の、卵のようだった。


 「どう見える?」


 黒紫の炎のゆらめきが少しずつ収まり、球体の表面が消えていくと、中にいる何かが実体として姿を見せ始めた。火球の中から姿を現したのは……。


 ───体高一〇メートルは超そうかという、爬虫類に似た巨大な生物。……ドラゴンといえばいいのか? いや、そのひとことで収めるのは難しい怪異だった。


 ただ巨大な爬虫類、というのでない。二足で立つ、頑強な足腰を持ち、体全体を黒光りする金属質の鱗が覆い、手指の先の鉤爪は、砥石で研ぎ上げたばかりのような輝く刃を備えている。長く太い尻尾は、太い手足のさらなる支えとなると同時に、その先端はどこまで続くかと思うほど細く長く、さながら鞭のようにしなってびしりびしりと地面を打っていた。


 さらに体の各部は、他の生き物の特徴を取り込み、また、想像もできない形状をも兼ね備えた、異形のキメラでもあった。背にはコウモリの羽を備え、頭部には牛のねじれ角が前方に突き出している。大きく割れて開く口には鮫のように鋭い牙が、中はむろん外にまで突き出すほどに生えそろっている。


 そして首、手首、足首といった、肉体がくびれて細くなっている部分には、そこを守るかのように、鱗とは違う長細い軟体の触手が、毛髪のように生えていた。寄生する別の生命体なのか、それらは一本一本が独立して蛇のように不気味に蠢いていた。先端をよく見ると、それぞれ違うかたちのしゃれこうべだった。


 明らかに、生物の系統樹はむろん、民俗伝承からも遠く離れた、人智に属さない威容の生き物が、そこにいるのだった。




 でも、それは飛鳥さんなのだ。彼女の姿も、重なり合うようにしてそこに在った。身長一六〇センチ足らず、制服姿の飛鳥さんと、体高一〇メートルを超えようかというその異形が、同一の存在としてそこにいる。どう説明すればいいか……憑依している霊の姿が見えている、というのがいちばん近いように思う。くっきり実体として見えているのが異形の龍で、憑依しているのが飛鳥さんだ。


 「あたしは魔王だよ。破壊と殺戮が仕事だ。邪悪な者に召喚されてここに来た」飛鳥さんが話しかけてきた。「クラスの連中があたしを魔女とか呼んでるのは知ってる。ちゃんちゃらおかしいね、魔女どころじゃない、あたしは、魔王だ」


 僕から見える飛鳥さんの姿の、その小さな口が動いているが、龍の口は動いていない。その声は、まるでスピーカーを通したかのように、少しこもって別の場所から聞こえてきた。この声は、僕にしか聞こえないようだった。


 「役割がないのなら、実体も作れないはずだからね、君にできることは何もないよ。誰からも見えないし、誰にも干渉できない。……しばらく黙って見てな」


 黒紫色の小太陽が消え失せ、中から姿を現した異形の龍は完全に実体化した。背の翼を羽ばたかせ、聖堂内に猛烈な風を巻き起こしながら、ゆっくりと降下していく。……やがて、ずん、と地響きを響かせて、巨体は祭壇に着地した。

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