第75話

 衝撃波は、地球の裏側まで届いたことだろう。


 世界は滅びた。


 残ったものは、土くれだけの地面と、それでも穏やかに世界を照らす夕陽。空と、海。


 そして、もうたったふたつの存在。僕と、……君。


 巨大な黒い球体が、空に浮かんでいた。沈黙し、もはや動かない。魔王飛鳥さくらのなれの果てだ。


 彼女の体は、おそらくはこれまでに彼女が成り代わってきた「魔王」たちが、一部ずつ取り込まれてできた奇怪なオブジェとなっていた。それは、多数の絵の具を混ぜていくとどうしたって美しくはならず、純黒にもなれずに不気味な暗色へ変わっていくように、ただただ醜く、不様で、不快な肉塊だった。


 あぁ。何と醜い姿だろう。


 今ならわかる。


 僕もきっと・・・・・かつては・・・・こんなだったのだ・・・・・・・・


 こんな醜い僕を、倒してくれたのは誰だったんだろう。


 覚えていない。思い出せない。とても悲しい、けど、振り向いてはいられない。


 どこの誰とも知らないあなたに、心から感謝を込めて。


 ありがとう。




 何もなくなった世界、誰もいなくなった地球の上で。


 空に浮かぶ暗黒の塊、それを構成する醜い有象無象。


 僕が近づくと、「見、見、見るなぁ……っっっ!」どこからか、声なのか、声でないのか、不気味なノイズが聞こえ、球体はかすかに震えた。「こんなものに負けない。あたしは魔王だ。負けるものか」必死に耐えている。今さら、何に?「闇に呑み込まれるような弱い人間じゃない。あたしは弱くない」もういいんだ。もういいんだよ、飛鳥さん。「誰か。誰か助けて」


 僕は探した。


 とても、長い時間がかかった。


 もしかしたら誰もが、自覚がないだけで、同じ苦しみを知っているのかもしれないけれど。


 それは苦しくなんかない、簡単なはずさと、うそぶく人もいるかもしれないけれど。


 少なくとも僕には、とてつもなく難しいことだった。


 その暗黒の球面に、たったひとつ、ほんのわずかに浮き出した、白髪という目印すらも黒く染まった、君の顔を探し出すことは。


 目を閉じている。呼吸など、しているはずもない。でも、確かに君の顔。小杉南高校一年B組出席番号二三番。飛鳥さくら。この世にたったひとりの、君。


 「飛鳥さん。大好きだ。心から、愛してる」


 僕は、見つけたその顔のおとがいを軽く持ち上げると、優しくキスをした。




 その瞬間、すべての暗黒が弾けて消えた。


 一瞬だけ、元の姿の飛鳥さんが姿を現した。


 嬉しそうな悔しそうな、それでいて未練をたっぷりとたたえた、たとえようもなくはにかんだ笑顔で。何か言いたげに唇が動いて、でも何を言ったかはわからない。


 何もなくなった地球。はるか彼方まで見える地平線。空と、海と、僕らだけ。


 それでも自転と公転は続いていて、太陽と地球の位置関係だけは明確で、美しい夕景に包まれて。




 一瞬、だけだった。飛鳥さんは光の粒に変わり、静かに溶けて消えていく。


 それと同時に、空も海も夕景も、ねじ曲がりつつフェイドアウトしていく。この世界の、消滅だ。




 さようなら、飛鳥さん。


 悲しいお別れだ。けど、しかたないんだ。魔王にハッピーエンドなんて、あるわけない。僕にとってもそうなんだ。これが、魔王になってしまった僕らが支払わなくちゃならない代償だ。


 異世界で魔王によって勇者が殺されたら、その魂は、変化をもたらすべく現実世界へと向かう。なら、魔王が倒されたなら、その魂はどうなるのか。


 僕は知ってる。もう、すっかり理解した。




 君はこれから・・・・・・多くの世界を苦しめ・・・・・・・・・破壊と殺戮の限りを・・・・・・・・・尽くした罰を受ける・・・・・・・・・


 僕がここにいるのと・・・・・・・・・同じように・・・・・




 飛鳥さん。


 僕は務めを終えた。一足先に、現実世界へ帰るよ。


 現実がどのように変化しているかは、わからない。その変化を、変化として知覚することもないだろう。けれど、僕が命奪ってきた者たちの魂がそこに在るならば、きっとすばらしい、望ましい変化が訪れている。僕は、そう信じている。


 そして飛鳥さん、君もいつかそこへ帰るんだ。奇跡が起きれば、きっと、また会えるさ。




 やがて飛鳥さんが完全に消えた。


 僕の存在もろとも、世界はぷつりとなくなった。


 後に残るのは、穏やかな忘却。

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