第68話

 翌日の金曜日、飛鳥さんは学校を休んだ。校長との約束を破ったことになるが、あれは口約束だ、かまうまい……それに、桐原さんが受け取ったメッセージによれば、本当に三八度五分の熱があって、立つこともままならぬそうだ。


 お見舞いに行こうか、と僕からもメッセージを投げかけると、来るなかまうな! と返事があった。

 それでも放課後、僕は飛鳥さんに電話をかけた。


 「具合はどう?」


 「うん……まぁ、だいたい。熱は、下がった」声に張りがない。まだ万全ではなさそうだ。「何の用? メッセじゃダメ?」


 「声が聞きたかったから」


 「……」しばし間があった。「……うん、まぁ、いいけど」


 「まず、事務連絡ね。数Ⅰの試験範囲が確定したから伝えとく。二次不等式まで、結局三角比はやらないってさ」


 「わかった。ありがと」


 「そういうわけで来週からは試験週間だから。部活動は当面禁止だ。僕らも、しばらくは試験に集中しよう。赤点を取ったら元も子もないからね。その間に、校長の件は、まほちゃんたちが始末をつけてくれる」


 「そっちは―――どうなりそう?」


 「気取った言い方をするなら、職員室は反校長派が掌握した。校長やグラサンは沈黙して、あらためて行われる職員会議で、出した要望がそのまま通る見込みだ。オークキングの親が横槍を入れてくる可能性があるから、本当に退学になるか、こっそり転校するような話になるかはわからないけど、安く見積もっても、あの豚顔を見る機会は二度とないと思うよ」


 「……やればできんじゃねぇかよ、そこまで……あたし、苦労しなくてよかったんじゃねぇの?」


 電話の向こうから、ふわぁと大きな吐息が聞こえた。


 「お疲れさま。……それでさ」僕はひとつ深呼吸をしてから、本題を・・・切り出した。「魔王閣下がこのたび見事勝利を収めたからには、お祝い、しなくちゃね」


 「いいよ、別に、そんなの……」気だるそうな声を遮って、僕は勢いをつけて続けた。


 「だからお祝いに、デートしようか」


 「……いま、なんて?」


 「デート」


 絶句、という言葉があるけれども、これほどはっきり句が絶える、というのもなかなかないだろう。


 「……え、……ちょ、な、……はあぁぁぁ!? あんた、自分が何言ってるかわかってる?」


 「うん。飛鳥さんと二人でどこかに遊びに行きたいなって」


 「え、えと、……やだよあたし、そういうの!」口から飛び出した派手な拒絶に、彼女自身驚いたようだった。あわてて取り繕いにかかる。「あ、えと、友納がイヤなんじゃなくて、その、だから、……わかるだろ、公共の場っていうの? 人の多いとこに出るのがヤなんだよ。ジロジロ見られっからさ」


 そういや、すっかり慣れてあまり気にしなくなっていたが、やはり飛鳥さんの白髪は目立つのだ。


 「前、ショッピングセンター行ったじゃん」


 「ああああそこはもう慣れてるし、人も少ない時間だったし!」


 「大丈夫、気にしなくていいよ」


 「なんでさ、人の気も知らな……」


 「だって僕が君を守るから」


 また句が絶えた。そりゃもう、そのままこと切れるかって勢いで。


 「……え、……あ、あの、あんた、スゴイこと言ってるって自覚、ある?」


 「本気だよ?」


 ……あのとき屋上で見た、彼女の赤面を思い出す。あるいは、火を吹くとか沸騰するとか、マンガチックな表現ばかりが僕の脳内を駆け巡って、なんだかおかしくてたまらない。最強最悪の、学内じゃ今や英雄扱いの魔王様だのに、これじゃかたなしだ。


 「ちょ、あ、え、あの、ちょ、ちょっと考えさせてもらっていい?」


 「いくらでもどうぞ」


 電話の向こうで、何かぼふぼふ音がした。考えるとは即ち枕の殴打を指す言葉であるらしい。まぁ好きなだけぼふぼふやれば良い、彼女がその真っ赤に染まった顔で考えた末に、なんと答えを出すか、僕にはおおよそ読めている。


 しばらくして、おずおずと、自信なさげな声が伝わってきた。


 「あのさ、……みんなでどっか行く、くらいで勘弁してくんない?」


 ほらやっぱり。


 「勘弁とか言っちゃダメだよ、魔王閣下。でも、みんなと一緒ならいいんだね?」


 「うん、……まぁ」


 相手が応じにくい、ハードルが高い条件を突きつけておいてから、その高さを下げるのは、交渉のテクニックのひとつだ。


 「そういう答えだろうと思ったから、先に根回しをしといた」


 「は?」


 「射水さんてさ、神社の娘でしょ、古い家柄でさ、鎌倉幕府のお武家さんからも信奉を受けたっていう御本家のお社が、葉山にあるんだって」


 「葉山? 鎌倉の、奥だっけ? えっと……何を言ってる?」


 「つまりさ、御本家のお社に宿坊があって、まぁ今じゃ実質民宿みたいなもんだよね、夏休み前に学校活動の一環でって話なら、分家のよしみで格安で泊めてくれるってさ。すぐ裏手に浜辺があるんだけどそれって社有地で、つまりプライベートビーチだね」


 「……」


 「試験明けの週末は、校長に見事勝利したお祝いに、葉山のビーチでポーカー部の合宿だ。というところで、勘弁するよ。どう?」


 「ぇ……ぅん……」


 消え入るような声だったが、確かに承諾の回答があった。


 「梅雨が明けてるといいね」


 電話の向こうでどんな顔をしているものか。さらにイジるのも一興だが、これ以上は彼女のご機嫌を損ねそうだ。攻めどき退きどき、過ってはいけない。


 ちなみに僕の根回しは、桐原さんと射水さんに、飛鳥さんを連れ出して似合う水着を買わせる、ってところまで済ませている。大宅を加えた男子組にはバーベキューの準備とその分担、城市先生には顧問名での保護者承諾書の配布と、九人乗れるミニバンのレンタルまで、仕込みは万全だ。


 エンディングの準備は―――整った。




 試験最終日の金曜、僕らの解放を祝うかのように、例年より早い梅雨明け宣言が出た。突き抜けるような夏の青空がまぶしい。予報では当面晴れ続きで、気温もぐんぐん上がるという。土日は、絶好の海水浴日和になりそうだ。

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