お隣さんは今日も留守のようです

木種

プロローグ:美しさと愛らしさ、果たして正解などあるのだろうか

一日目 疲れた心を癒してくれる女神的存在

 二十二時。ようやく俺は仕事を終えた。

 

 フロアの電気を消して社員証をレコーダーに読み込ませ、全員が退社したことでオートロックが掛かった音を背に受けながら廊下を歩いていく。足取りは疲れから重い。


 社会人一年目、まだ勤務してから二ヶ月程度だが既に心が折れそうだ。いや、これだと人に話した時、誤解を生んでしまうな。


 別に仕事の量は馬鹿みたいに多くない上に入社して半年間は先輩がついてくれるようになっていて現に俺には四歳年上の先輩が指導役としている。ちなみに百七十ある俺と変わらない身長でめちゃくちゃ綺麗な女性。できる人感半端ないよ、俺と違って。


 だからなんだよ、苦しいのは。

 俺は何もできない。何も役にも立てていない。


 出勤時間は七時から十時までの間で出社したところから九時間、実働八時間でちゃんと帰らせてくれる。それに高層ビルの四フロアがうちの会社で、なかには人をダメにすると有名なあのビーズクッションが数個置かれている休憩専用の部屋まであるホワイトぶり。


 それなのに大学卒業三か月前まで実家暮らしだった俺はバイト経験が殆どなくて、初めてまともに社会というものを体験したために周囲との差は明確だった。そのせいで毎日心が荒んでいくばかりなんです。


 今日も出勤九時でここまで残ってやっと皆と並んだ程度。残った分何もプラスされてないんだよ。でも、そんな俺にマイナスじゃなければ良いのよ、と先輩は全く怒らない。


 これって期待されてないってことですか? そんな勘ぐりばかりしてさらに自分を傷つける。


「はぁ……マジでもう辞めようかな。でも、辞めたところでこんな人間誰が拾うんだよって話だし、実家に帰るわけにもいかないし」


 憂鬱だ。今日は金曜日で明日から二日連続休暇だというのに憂鬱だ。


 隔週で二日休暇をもらえて、でもそれが辛いなんてことあるか? 俺にはもっと経験が必要なんだよ! ああ、くそっ! 


 手に持っていたペットボトルを自販機の横に置かれているゴミ箱に勢いよく投げ入れる。反響する音は誰にも聞かれていない。


「帰ろう……」


 虚しさに駆られる前にビルを出て、職場の最寄りから電車に揺られ十五分の駅に降り、そこからまた十五分かけ歩いて帰る。


 楽しそうに居酒屋から声が聞こえてくるのが腹立たしい。


 いいよな、そんなに飲んだくれて。そうだよな、給料も入って翌日休日なら普通会社の人と飲むよな。そういうコミュニケーションすら先輩以外とはあまりできていない俺の良いところなんて見つかるはずがないんだわ。やんなっちゃうね、本当。


 そんなことを考えていたら家賃八万の三階建てアパートが見えてきた。プライドで最上階の角部屋を取ったけど、騒ぐ相手もいないし、なんならお隣さんはよく女性を連れて楽しんでいるようでベッドの音が聞こえてきたときにはもうそりゃ羨ましくなりますよ。

 こっちはずっと自分の右手しか相手してくれないんですから。


「ただいまー」


 暗がりから返事が来るはずもなく、寂しさがより一層増すだけ。スーツを脱いでシャツをかけ、パンツ一丁の姿で冷蔵庫からビールを二缶取り出し座布団の上に腰を下ろす。


 社会人になってからまともに運動できていないせいか学生時代につけた腹筋が殆ど引っ込んじまった。でも、やめられないんだよなー、クソ高い契約料払って今日行われた好きな野球チームの試合を見返しながら酒を飲むのは。


 くぅー、最高だね。この至極幸せな時間は心に温もりを与えてくれるだけじゃなくて、本当に今の俺を支えてくれている。結果を目に映さないよう毎日自衛も完璧だ。


 えっ? そんな時間があったら仕事のこと復習でもして身につけろって?


 いやいや、わかってんだよそんなこと。無能なうえに向上心がない社員はゴミクズだってことぐらいさ。まあ、向上心がないわけじゃないけど、それを理解しているうえで今やれないのは心の問題なんだわ。


 永遠に自己嫌悪のループ。どうしようにも抜け出せない沼に嵌まって抗うことすら嫌になっちゃう気持ちわかんない? わかんないよな。


「はぁ……なんか気分悪い。やっぱシコって寝よ」


 ああ、その前に先輩に連絡しておかないと。


『お疲れさまです。本日は二時間も残って教えて頂き、ありがとうございました。週末でお疲れなのに本当にすみませんでした。あの後、予定分を終わらせて先輩の机の上に置いています。また来週、ご確認の程よろしくお願いします』


 こんなところかな。特に先輩が厳しいわけでも生真面目すぎるわけでもないのにさすがに硬すぎかと思うけど、いつもこんな感じだし、迷惑をかけている俺が緩くできるわけがないし、これでいいんだ。


 それに返事は大抵『了解』とか『気にしないで!』とか単調だし。


 あと今思い出したことを付け加えれば、普段なら最後まで付き添ってくれる先輩が今日いなかったのは同期の男の人と飲みに行く予定が入っていたからだったはず。二人きりなのか、それとも他の同期や先輩後輩と一緒なのか誘われていない俺にはそれすらわからない。


 ただどちらにせよ、明日が休日ならまだ帰っていない可能性の方が高い。返事は遅くなりそうだ。


 あーあ、もし好意を抱いているみたいな感じだったら嫌になるわ。かといって、あんな綺麗な人を俺より早く知り合った人たちが見逃すわけがないんだよな。こんな俺でもすぐ目を奪われたんだから。


 茶髪で長い髪をストレートに伸ばし、当然の如く艶やかで高い身長、細くまとめられたスタイル。四月末に新社員の歓迎会という名目で飲み会を開いてくださったときに一度だけ私服を見たことがあるけど、女性ならではの格好良さが際立っていた。


 それに自分にストイックで他人に甘くできる人ってかなり素晴らしいというか、滅多に見ないから本当に尊敬。


 まあ、俺はもうすこし肉感のある方が好きで、あの姿はもう理想過ぎて逆にね。ただ、付き合えるものなら……と思っちゃうのが男のダメなとこだと思う――そんな馬鹿なことを考えていたら珍しく長めの返事が来てる! ちょっとテンション上がった!


『お疲れ様! そんな卑下しないでさ、人には人のペースがあるんだから。棟永とうながくんが今の立場を理解したうえでちゃんと役に立とうと思ってくれていること、私は知ってるしね。ちゃんと二連休で身体休ませるんだぞ!」


 はぁぁぁ女神だ、あまりにも女神すぎる。


 どうしたらこんな温かい文章を飲んでいる途中に送ってくれるんだよ。最高過ぎませんか? うちの先輩。これで今二十六歳とか有り得ん。


 ささ、俺もちゃんとお返しして寝よう。終わり良ければすべて良し! なんだかんだ今日は幸せ気分で眠れそうだ。


『そう言ってもらえると助かります。しっかり寝て月曜からは少しでも周りに置いていかれないよう体力満タンで――』

「おっ?」


 返事を書いている途中でまたメッセージだ。ここまで続くのは今までなかったぞ、どれどれ。


『とは言った矢先でごめんだけど、さっき飲み終わってさ、偶然棟永くんの家の近くにいるんだよね。もうすこしだけ誰かと喋りたいから寄ってもいい?』


 もしかして俺の心が疲れていること、察してくれたのかな? そうだとしたら、嬉しいけどなんだか申し訳ない。だが、そんなことを全てひっくるめてどうでもよいと思えるほどに二人で飲めるという事実に興奮してしまう。


 急いでさっきの文章を消した。


『俺は全然大丈夫です! にしても、よく家なんて知ってましたね』

『新人さんの資料は指導担当も確認するようになっているのよ。じゃあ、十分もしないうちに着くと思うから待ってて!』

『わかりました。お待ちしてます!』


 なんて最高の日になってくれたんだ、今日は。


 どうしようどうしよう。来るまでにとりあえずベランダの扉開けて空気入れ替えなきゃだし、大学時代に友人から貰ったアロマディフューザーを使って雰囲気作りもしなきゃだし、そもそもの話ちゃんとした部屋着も着なきゃ。


 この時期は湿気のせいで暑いからこの格好だけど、夏用の部屋着自体は持っている。タンスのなかからそれを出して着替え、軽く掃除機をかけて準備万端。酒とつまみは自分のために買い置きしている分を使えば問題ない。


 スマホで時間を確認したらあと二分程度。


 ギシッ……ギシッ……


 ん? 待てよ、この音はお隣さんだっ! まさか今日、このタイミングでヤってんのかよ。いつもなら邪魔しちゃ悪いと思ってなにも反応しないけど、今は何が何でも阻止しなければならない。


 すまんが、初めての壁ドンをさせてもらおう。


 拳を音の漏れてくる箇所にぶつけると女性の驚く声が聞こえてきた。これまで全く怒られたことがなかったから、まさかこちらまで聞こえているとは思っていなかったんだろう。


 これで今後は配慮して行為に及んでくれると思うと得だったな。


「よし、これで完璧だ」


 あとはインターホンの音が鳴るだけ。

 ピンポーン


 キタッ!


 心躍るままに駆け足で玄関に向かい、ニヤニヤしすぎてはいないだろうかと靴箱の上に置いている鏡で確認してから鍵を開ける。


「どうぞー」


 いつもよりワントーン高い声で扉を開けた先には俺の知らない格好で佇む先輩…………ではなく、見知らぬ女の子がただ一人、瞳を潤わせて俺のことを見上げていた。


「ごめんなさい。すこしだけお邪魔してもいいですか?」

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