六十日目 いつでも君が一番手
俺と悠にしか伝わらない暗号と化した優梨愛という名前。
映画でスパイや潜入捜査官が使うような部屋に流す音楽の種類で現況を伝えるのと同じで、悠には現在俺が先輩と同じ空間にいて、なおかつピンチな場に立たされているということが伝わっただろう。
俺の声しか聞こえない先輩から怪しまれるようなやり取りを行ったわけでもないので現状はバレていることもない。
「話すときはあまり顔を見ないようにしてくださいね。何か企んでいると思われたら厄介ですから」
「もちろん、それはわかってるよ。今更あのときのお礼だなんて求めてないから」
あくまで先輩に悠の言葉を悟らせないよう不必要な言葉も交えて会話を繋げていく。
彼女の声が聞こえない分、こちらの言葉の紡ぎ方から想像するしかないだろうからここは相当俺が頑張らないと。
「それでさ、話しっていうのは簡単なことで、優梨愛がここに居候してたってことを認めて欲しいんだよ」
「なるほど。なにかしらのトラブルが起きて私の存在がバレてしまったんですね」
「まあ、そういうこと。面倒くさがりなところがあるの知ってんじゃん。んで、優梨愛の歯ブラシを汚れ落としにでも使っていいよって言ってくれていたけど、置いたままにしちゃっててさ」
経緯の説明はこれで十分だろう。
あぁとすぐに理解してくれたみたいだが、どう誤魔化そうか考え始めたのかそれ以上言葉が帰ってこない。
たしかに難題ではあるんだよな。とにかく理由付けは簡単なんだ。ただ、その先にある先輩と悠の会話がなにより避けなければならないこと。
結局最終的に俺が認めたと報告しただけでは悪いことをしているわけではないのに許されないだろう。最高の形で言えば、さっき話したとはいえ記憶に残るほどではなかった優梨愛に身代わりになってもらうことなんだけど、さすがに悠の近くにはいない。
「……まぁ、今大学なので沙耶に頼めば解決するんですけど」
「けどってことは、つまりそういうこと?」
「いえいえ、もちろん歯ブラシを隠し忘れていたのは私の責任でもありますから、こちらからなにかを言うってことはないですよ。ただ、もしここで私が沙耶と入れ替わったふりをしてお姉ちゃんと普通に話したらどうなるかなーって」
この状況でそんなおねだりをするなんて心強すぎないか? でも、たしかに話はややこしくなるし、その後展開は悪い方向に傾いていくだろう。なんせ俺にとってメリットはひとつもない。
どうあれ悠の協力が無ければこの場を無事乗り切ることはできないんだ。それに電話をかけてからずっと横顔に突き刺さる先輩の視線がそろそろ痛い。時間をこれ以上かけすぎるのは悪手。
まあ、自分にも非があること自体は認めているわけだし、まさかこの条件付きの提案が本気なことはないと信じる他ない。声色もずっと明るいしな。うん、そうだと信じて早く頼むぞ!
「わかった、わかった。今度十分にお礼はさせてもらうからここはひとつ頼むよ」
「ふふっ、この約束の真偽はまた今度にしましょうか。それじゃあ、簡単に事情説明をするのですこしだけ時間を稼いでくださいね」
まるで心を見透かされたように釘を刺されたけれど、とにかくはこの場を鎮められそうだ。言われた通り、先輩には今仕事先の人に呼ばれみたいでそれが済み次第、電話を代わると伝え了承を得た。
「それにしても、一時期住ませていたってまあまあ近い話でしょう? 全然この歯ブラシ汚れてないし」
「あー、それなりには……ですね。今さらですけど、あのときのお弁当はそいつがお礼として作ってくれたやつだったんですよ」
「なるほどね」
さりげなく設定を追加して悠から人物像を遠ざけておく。
無理のない話ゆえ、先輩は何も疑う様子はなく、すんなりと受け入れてくれた。
そうして待つこと数分。悠がマイクミュートを解除したのを確認する。
「ごめんねー、お待たせー」
明らかにこれまで異なる高い声色。すぐにその人物が沙耶だとわかった。
「それじゃあ、今から変わるからお願いね」
「はいはーい」
あまりにも呑気な口調に不安を抱いてしまうが、ここで作戦変更ができる猶予はない。
「先輩、どうぞ」
そう言ってスマホを渡す。ここまで仕事としてはもう数十分は無駄にしているはずなのに、それを気にも留めず先輩が俺のことに夢中になってくれているのは素直に嬉しいな。あとは結末がうまく締めれれば。
「ごめんなさいね、お仕事中にお邪魔して」
そんな入りからまた数分、俺だけが待たされる。
その間、先輩の表情が徐々に柔らかくなっていったことから沙耶ちゃんがなにか失敗したということはなさそうだ。ただ、時折俺を見て良いことを教えてもらったかというような嫌な予感しかしない笑みを浮かべていたのが唯一の気がかりだが……。
「うん、それじゃあ、お仕事頑張ってね。ありがとう」
会話を終えたみたい。渡されたスマホにはまだ通話中の文字が。
「俺からもありがとう」
「ううん! お兄さんも大変なんだね、悠に捕まって」
その瞬間、沙耶ちゃんの背後からこらーと形だけの怒りを見せる悠の声が聞こえてきた。そのおかげで本当に無事に済んだのだと確信を持つことが出来て一安心。
「じゃあ、電話切るね。ここからまた頑張って」
「はーい、ばいばーい」
先輩がいなければ胸中の安堵を思い切り吐き出していたことだろう。
通話を切り、一回目の待ち時間の間にダイニングへ移動していた俺たちは向き合い、話し始める。どんなふうに説得されたのか、あの視線の意図だとか俺も聞きだしたいことがたくさんできたからな。
「今回の件はしっかり優梨愛ちゃんが教えてくれたから不問とするわ」
「だから、言ったでしょ。本来こんな時間を掛けるようなことじゃないんですよ。何をそんな気になさったんですか?」
「んー、なんだろうね」
「ちょっと! そこはちゃんと答えてくださいよー。あとで言うって言っていたじゃないですか」
からかいかもしれない。そう考えていても真実を知るまでは諦められないのが人間なんだ。ここではぐらされちゃ――
「それより! 優梨愛ちゃんから
あれー? そんな事実なかったはずだけどなー。悠め、こんな仕打ちをするなんてずるいじゃないか。これじゃあ、形勢逆転だよ。
そこからまた十分ほど、先輩に問い詰められたのは言うまでもないだろう。
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