六十二日目 初めての感動は褪せることなく

 とにかく重い空気が漂う前になにかしら言葉を返さなければならない。


「先輩ですらそう感じてしまうなら、世の中不合理すぎませんか?」

「どうかなー。棟永とうながくんのなかでの私の評価が高すぎるだけじゃない?」

「そんなことはないですよ。あくまで世間一般的に考えたごく普通の意見です」


 まずは褒めて気分をあげていく。否定してはいるが先輩の声が若干高くなったことから間違ってはいないはずだ。


「じゃあ、もしそうだとしても実際数年彼氏いないからなぁ」

「周りの見る目がないだけでは?」

「それでいうなら君はどうなの?」


 おっ、これは大チャンスではないか。ここで社交辞令的な言葉でも好意的な意見を伝えるのは十分、有効なのではないだろうか?


「もちろん先輩が良ければありがたい話だと思いますよ」

「そんなこと言っちゃってさ。若い子を部屋にあげていたくせに」


 ちょっと拗ねちゃってる先輩可愛すぎです。年齢が高いというのが逆に良い。本気で俺に嫉妬心を見せつけているわけではないとはわかっていても幸せです。

 それからは先輩もこういうこと言いすぎるのも年齢が透けちゃっているみたいで嫌だよねと話を切り上げ、仕事に向き合った。


「ふぅ……お疲れ様。今日はなんだかんだ良かったんじゃない? 進み具合からして」


 大きく背伸びをする先輩の前にはびっしりと文字の並ぶ仮の企画書。自宅というホームに加え、先輩と賑やかに考えられたからか知らずのうちにはかどった結果だ。

 本音を漏らしても良いのであれば、このまま夕食を振る舞い、楽しく談笑しながらゆっくり帰りの時間まで二人きりの空間を堪能したいけれど、ここには悠も住んでいる。頼めば優梨愛の家にでも泊ってくれるとはわかっていても、それは何か違う気がして特に口には出さなかった。

 気付けば時刻は二十一時近くだ。


「ですね。いい感じに出来ました。ただまあ、ここから次見たときにどれほど添削されているのか心配ですけど」

「ぱっと一通り見たようすだとそこまで多くはなさそうよ。ようやく内容を濃く綿密にする段階に進めるじゃないかしら」

「良かった」

「それでさ、今日このあとはどうするの? どこか食べに行く? それとも何か作ってくれる? さすがにお腹すいたのよね」


 有難い御誘いなんだけどなー。俺は同棲を否定しているわけだから特に強く断る理由があるわけない。

 はてさて、悠に連絡するのはMINEでいいとしてもうーん、どうしようかな。


「何か問題あった? もしかしてこの後誰かと会う予定とか」

「正直、このタイミングでその話をするとまた誤解が広がりそうなのであれなんですけど、まあそんなとこです。すみません、折角のお誘いを頂いたのに」


 本当にそう思う。これは紛れもなくチャンスだと。でも、気遣い……といっていいのかわからないなにかが働いて悠を一人置き去りにするのは嫌だ。単にそんな気分になった。

 午前中、協力してくれている事実を感じられたからだろうと理由付けしてみるも、なんだかしっくりは来ない。家族という言葉も早い気がする……まあ、今はそんなこといいか。


「先約なら仕方ないよ。企画案が完成したときにとりあえずお疲れさまの意を込めてどこか食べに行こう」


 まるで残念そうには感じられない、気遣いと分かる笑みに俺も形だけの謝罪と感謝の言葉を返し、先輩を玄関まで見送る。


「それじゃあ、また明日ね」

「はい。また明日。今日はありがとうございました」


 軽く頭を下げ、先輩の姿が扉の向こうに消えていくのと同時に鳴った閉まる音で顔をあげ、ダイニングへと戻っていく。

 スマホを手にしてさっそく悠に連絡を入れた。どうやら外食をしていないらしい。

 それから二十分ほどして悠が帰ってきた頃には簡単なものではあるが夕食をつくりあげ振る舞った。二人、丸テーブルで隣に座りながら今朝起きたトラブルの話などを交えつつ、美味しいと何度も言ってくれる悠の笑みに心を満たされ今日一日の疲れがどこかに飛んでいくのを感じる。

 以前にも一人暮らしに慣れ始めていた弊害か、こういう温かい場面に癒されることがあった。仕事がうまくいかず卑屈になっていたこともあってどうもこの温もりには素質以上の効力があるみたいだ。

 ああ、今、幸せだな……。ふとそう想う。やはりこのときもまた、彼女がおかずを頬張り噛み締めるように堪能しながら笑みを浮かべていた。

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