二十一日目 硬い芯のなかに刻まれたヒビ

 さて、昼食を済ませユニフォームに着替え終えた優梨愛ちゃんから守備練習中にいろいろ教えて欲しいと頼まれたために必要最低限の情報を伝えておいた。スポーツの良さは迫力にあると考えているけれど、どれほど迫力があったとしても大まかなルールぐらいは分かっていないと楽しめないからな。これで試合中に疑問が生まれて興奮が冷めてしまうこともないだろう。


「もう始まる感じですね!」


 スターティングメンバーが発表され、各々が守備位置に着き始める。ホームゲームだからまずはTGの守備。先発の西城がマウンドに上がると通算百勝という記録が掛かっていることもあり、球場内は早くもボルテージが上がっていく。隣に座る優梨愛ちゃんも周囲の勢いに飲まれ、カンフーバットを鳴らして楽しんでいるみたいだ。


「この熱気はやっぱり生でしか味わえないなー!」


 瞳を輝かせこの雰囲気を全力で感じているようでなにより。まさか初めからここまでテンションを高められるタイプではないと思っていたから驚きだ。

 スポーツをやっていたような筋肉の付き方をしていないし、そういう話すら聞いたことなかったし、むしろこの熱気に押されて静かになってしまわないかと危惧していたけど杞憂だったみたいだね。


「プレーボール!」


 審判のコールによって試合が開始される。そうして投じられた第一球、右打者のインローを抉るように切り込むシンカーがミットに収まる。


「ストライクッ!」


 より一層歓声が沸き上がった。



 ◇◇◇◇◇◇◇



 相手チームは現在最下位とはいえ、こちらと同様にエースをぶつけてきた。故に投手戦になるかと思ったが今日は両チームの打線が好調、四対三とスコアは刻まれている。盛り上がりに欠けるような展開ではなくて良かったけど、九回表を終え負けている状況。


 優梨愛ちゃんも不安そうに視線がグラウンドと掲示板を行ったり来たり。


 エースが意地を見せて完投したんだから勝ってくれ! 上位打線から始まるんだ、今日の調子なら少なくとも一点は取れる可能性がある。


 相手はさすがに抑えを出してきたな。ここまで防御率は1.00。唯一二失点したときは余裕のある試合だったから、未だにセーブ機会で失敗したことはない……くそっ、でも四番の斎藤に回せれば一発も期待できる!


「よしっ! フォアボールだ! 今日は制球が定まってないから全然チャンスあるぞ!」


 …………ああ、ダメだ、二者連続三振。


 周囲からもため息が漏れ聞こえてくる。でも、ゲッツーにならなかっただけマシなんだ。これで斎藤に打席が回ってくるから。


「お兄さん、勝てますよね?」

「ああ、俺たちが信じてたらね。だから、祈ろう」

「はい!」


 優梨愛ちゃんは胸の前でギュッと手を握り合わせて大きな拳をつくり、瞼を閉じて強く祈り始める。暑さのせいか緊張のせいか頬を伝う汗。それを拭うことなく、応援しているチームの劇的な勝利を願っている姿を見たら感動させられちゃうな。


 頼むぞ! 優梨愛ちゃんのためにも打ってくれ斎藤……とは言うものの、今日四タコなんだよなぁ。しかも三三振。唯一期待できる点を挙げるとすれば、四打席目までとは投手が違うこと。


 相性が噛み合えばチャンスは十分にあるはず。


「ストライクッ!」


 初球からストレートで押し切りかよ。まあ、この投手の強みはこの球威のあるストレートだもんな。だからこそ、カウントを取りにくる変化球。持ち球は少なく、カーブかスプリット。左打者の内を突くようなカーブを投げてくれば、うまく引っ張れるはずだ。

 二球目もストレートでボール。よしっ、期待通りの展開。次に待ち構えるのは今日打点を挙げている巧打者。勝負を仕掛けるならここになる。


 考えろ、考えるんだ斎藤! 打ってくれよ、斎藤!

 投手が構え、投じられた三球目、この遅さはやっぱりカーブ。軌道も甘い。行ける!


「お願い……」


 緊迫した空気のなか、小さくそう呟いた優梨愛ちゃんの声がはっきりと聞こえてきた。

 そして、一瞬意識をそちらに向けた瞬間、鼓膜が破れるかと思うほどの歓声が鳴り響く。


「よっしゃぁぁあああ!」

「サヨナラだー!」

「ありがとー、斎藤!」


 マジか、サヨナラホームランかよ! 本当にさいこ――


「最高だよぉぉおおお! 斎藤選手ー!」


 俺が声をあげるより前に立ちあがって喉を枯らすのではと心配になるほどの声量で叫ぶ優梨愛ちゃん。


 カンフーバットを何度も叩き、グラウンドではしゃいでいる選手たちに向けてありがとうなり私も嬉しいなり、興奮のままに言葉を投げかけている。口を大きく開け、汗を飛ばして感情を爆発させる、そんな人の目なんか気にせずにこの瞬間を全力で楽しもうとするその姿につい目を奪われた。


 そうして周りは皆立ち上がり、大いに喜びを分かち合っているのに一人ポツンと席に座ったままボーっとしてしまう。


「なにしてるんですか、お兄さん! ほらっ、選手の皆さんが並び始めましたよ!」


 その異変に気付いてくれるのはもちろん優梨愛ちゃんだけで、喜色を満面に表したまま俺の手を引いてくれる。


「あ、ああ、そうだね」


 それにつられるようにふつふつと俺のなかにも喜びが湧き始め、彼女の力を借りて立ち上がり、歓喜の表情で手を振ってくれている選手たちを目にした瞬間、自然と声が出始めた。


「ありがとー! おまえら本っ当に最高だったぞ!」


 ああ、本当に。本当に最高の気分だ。


 こんな可愛い子が時に恥ずかしさを捨ててまでも気持ちを曝け出してくれるのは、下手に気を使わなくて済むし、気を遣われているとも感じなくて済むし、ずっと良い気分のまま試合を観戦できて凄く楽しい。


 やっぱり実際に連れてくるならあまり興味のない恋人とか気になる子より、こうやって一緒に興奮してくれる子に決まってるよなー。もちろん恋人が同じ趣味だったら尚更いいんだけど。


 たくさんの温かい言葉を受け取った選手たちはベンチ裏に引いていき、西城投手と斎藤選手のヒーローインタビューが始まった。その間も優梨愛ちゃんは雰囲気を感じ取り、コメントの合間にしっかり音を出して盛り上げていたからもうファンとして完璧なんじゃないだろうか。


 そうして、今日のヒーローたちが退いていったところで観客たちも思い思いに感想を言い合いながらちらほら帰り支度をし始める。

 俺たちも行こうかと声をかけようとして隣を見れば優梨愛ちゃんは深く椅子に腰かけて天を仰いでいた。まるで魂が抜けたみたいに。


「ふぅ、なんだか一気に疲れが来ちゃいました……」


 張り詰めた緊張から解放され、一気に感情を昂らせたからだろうな。でも、それは試合を十分楽しめたということ。素晴らしいよ。


「どうする? ショップ寄らずに帰る?」

「いえいえ、むしろこんな感動的な試合を見せてくれて、余計グッズが欲しくなっちゃいました。これが沼に嵌まるってやつなんですかね」

「だろうね。もう逃がさないよう足を掴まれているよ、きっと。それじゃあ、外が暗くなって熱が冷める前に移動しちゃおうか」


 うんうんと頷いてくれたことを確認して荷物を手に持ち、一緒に入ってきた通路から出ていく。階段を下りていく間も他の観客と同様に今日のあそこが良かったとか、こういうところが楽しかったとか、でもやっぱり最後のホームランが一番良かったよねと振り返る。


 個人的に特に嬉しかったのは西城選手が記録を達成できたこと。生え抜き高校生として期待され、見事成長して初一軍登板を果たした三年目から八勝。それから更に開花してここまで毎年十勝以上をマークしてきた。


 俺たちには知り得ない努力の結晶が報われて本当に良かったよ。

 結局十数分ほど掛け球場から出て、初めに入ったショップに再度入店する。


「何買おうか。荷物持ちなら俺がするから遠慮せずに選んでいいよ」

「本当ですか? お兄さんも疲れていません?」


「ううん、体力には自信あるから」

「へぇ、じゃあいっぱい楽しめますね」

「ん? うん。このあとも全然楽しめるよ」


 俺の返答にふふっと笑い返してくれた優梨愛ちゃんは視線を俺から棚に並ぶグッズの方へ向け、お言葉に甘えていろいろ買っちゃいますねと目を付けていたのであろう商品を手に取り始めた。


「ちょっと待ってて。かご持ってくるから」

「あっ、ごめんなさい、さっきも持ってきて頂いたのに」


「いいってそれぐらい。今日は優梨愛ちゃんのための日だから。存分に楽しむことだけを考えてよ」

「えへへ、ありがとうございます」


 ニコッとはにかむ笑顔に何故かドキッとした。さきほどまでは妹みたいな存在でしかなくて楽しんでいる姿が微笑ましく胸が温まるような感覚はあったけど、はっきりと感情を揺らされるようなものは初めてだ。その愛らしさに照れて頬を赤くしてないか不安になるぐらい。


 恋人持ちの人を想うこと自体を間違いとは思わない人間だが、出会って約一週間の年下で、しかもお隣さんの彼女なのだからさすがに手を出すのはやばいだろ。

 まあ、まだ気になる程度だし、あくまでこれからも仲を深めて趣味を共有し合いたい相手ってだけだし、うん、大丈夫大丈夫。なにより俺が今一番好意を寄せているのは会社の先輩だしな。


 そんな馬鹿げたことを考えていたら、電話が掛かってきていたみたいだ。胸の内ポケットのなかでスマホが揺れている。


「おっ、皆山さんだ。もしかしたら試合結果でも見てかけてきたのかな」


 ちょうど良いタイミングだから感謝を改めて伝えよう。そう思いながら応答ボタンを押して耳に当てる。すると、もしもしと言う前に興奮気味の皆山さんの声が聞こえてきた。


棟永とうなが! 最高だったな、今日の試合!」

「はいっ! 本当に譲ってもらってありがとうございました!」

「本当だよ、おまえ。めちゃくちゃ悔しいわ。こんな日に急な仕事入るなんて」


「あはは、お疲れさまです」

「まあ、昨日おまえが手伝ってくれたおかげもあって無事今日の会議を進めることが出来たからいいけどさ」


「ありがとうございます。そうだ、写真、撮っておいたので送らせて頂いてもいいですか?」

「おお、マジか。それはありがたいな。やっぱり生の写真の方が表情が生き生きしてて好きなんだよ」


 声の弾み具合からここまで言ったことに不必要な気遣いはないように思える。


 あー、もしかしてこの後二人で飲みに行くのかなとか考えたらちょっと憂鬱だけど、俺がどうこう言えるような立場じゃない。それに俺は俺で優梨愛ちゃんが良ければ祝勝会と銘打って飲み会を行おうと計画していたから。


 まあ、先輩がそれを聞いたとして楽しんでねぐらいの言葉しか出てこないだだろうけどね。


「ちなみに今はまだ二人で球場なのか?」

「はい――あっ!」

「ん? なんだその反応は。もしかして本当に彼女を誘っていたのかな?」


 やられちまった。ていうか、やっちまった。チケットを譲ってもらったときに疑われていた分、過剰に反応しちまったじゃねえか。


「そういうのじゃないですから」

「ふーん、どうだかね。おーい、花宮! 棟永の奴、俺たちが大事な会議中に恋人と行ってたんだってさ!」


 おいおい、本当にやめてくれよ皆山……さん。もう最悪じゃないか。


「えー、いいなぁ棟永くん」


 遠くから先輩の声が聞こえてきた。絶対誤解されたじゃん、これ。


 先輩にも一度弁当のことで疑われているから今回は誤解を解くのに時間がかかりそうだぞ。どうしたものかな…………。


「ちょっとー、お兄さん! 誰と話してるんですか?」

「あっ、ちょっと優梨愛ちゃん、今は――」

「おっ? なんだなんだ、からかってやるだけのつもりが本当に彼女かよ。羨ましいねー」


 スマホの画面を覆い隠すのが遅れてしまったうえに誤ってスピーカーボタンを押してしまったみたいだ。皆山さんの声が優梨愛ちゃんにまで届いてしまった。


「彼女さんすぐ傍にいるの? 私も声聞いてみたーい」


 先輩まで。それに近付いてきたみたいで声がさっきより大きく聞こえてきた。他のお客さんからの視線もあるし、スピーカーをオフにして早く話を切り上げちゃおう。


「違いますよ、先輩。ねっ、優梨愛ちゃん?」


 俺の問いに頷きを返してくれる。それじゃあ伝わらないんだけど、いいか。知らない人だということに加えて、俺の仕事先の関係者だということを咄嗟に理解して面倒にならないよう配慮してくれたんだろう。


「ほらっ、優梨愛ちゃんも頷いてますから」

「それ、私には全然見えてないけどね。まあでも、棟永くんがそこまで言うんだったら本当に違うんでしょうね。それじゃあ、これ以上お邪魔しても悪いから切るわね。優梨愛ちゃんにもごめんねと伝えておいて」

「あっ、はい。優梨愛ちゃん、先輩が邪魔してごめんねって」


 そう言ってスマホを渡すと耳に当てた。


「いえ、私のことはお気になさらず」


 短く答えて返してくれる、と受け渡しのタイミングで優梨愛ちゃんの指が画面に触れ、通話が切れてしまったみたいだ。


「あっ、ごめんなさい」

「いや、別に構わないよ。どうせすぐ切るつもりだったし、先輩には俺から後で連絡入れておくから気にしないで。さあ、ショッピングを続けようか」


「そうですね……ちなみにさっきの先輩さんが初めて会った日にお兄さんと元々予定が入っていた人ですか?」

「ああ、そうそう」

「なるほどです。だから、私のこと誤解されたくなかったんですね」

「ごめんね」

「まあ、お兄さんにとっては私より先輩の方が大事でしょうから、なんて」


 悪戯っぽく舌をちろっと出してからかってきた。素直に感想を述べるとすればこれまでで一番と言っていいほど可愛らしい。ただ、それをここで口にしたら本当に俺が狙っているみたいに捉えられるかもしれないから絶対にしない。


「はいはい。それじゃあ、見て回ろうねー」

「むぅ、なんですかその反応。いいですよ、そっちがその気なら私だって好きにしちゃいますからね」

「うおっ!」


 不貞腐れたようにそう言ったかと思えば、かごの持っていない方に腕を組んできた。想定外の行動に反応が遅れ、まるでカップルでいるかのような形が出来上がってしまう。


 スピーカーの流れでまた注目されても困るし、堂々としておいたほうがいいかな。


「案外甘えたがりなのか、それともワガママなのかどっちなんだい?」

「どうでしょうね。ちょっと本命に放置されている分、寂しさを埋めたがっている悲しい女の子かもしれませんよ?」

「ハハッ、それだけはないね。あの気の強さと度胸を持つ優梨愛ちゃんがそう易々とへこたれるなんて考えにくいよ」

「よく分かってくれてますね。まあ、どっちでもいいじゃないですか、そんなの。今日は私のための日なんでしょ?」


 からかうような瞳で見上げられたらそれとこれとは違うだなんて言えないよ、俺みたいな一般的な男は。


 それに距離がこれまでで一番近くになったことで優しいせっけんのような香りが鼻を抜け、本当にどうでもよいと思わせるぐらい心を落ち着かせてくれる。


「その通りだ。じゃあ、行こうか」

「はい」


 今度はまた明るく清らかな笑顔で返事をしてくる。


 これは敵わないな。もしかすると、試合が決まったときの表情ですら演技だったのかも……いや、それはないか。本当にそうなら今すぐにでも女優の道を目指した方が良いぐらい演技力が高すぎる。


 今日は試合も楽しんで、優梨愛ちゃんにも十分楽しんでもらって多くの表情を引き出せた。それでいいじゃないか。


 何も難しいことなんか考えず、ドキッとさせられた女の子と仲良く買い物ができる。ただこの状況を思う存分楽しもう。


 そうして十数分ほど店内を回り、買い物を済ませて店を出た。そのとき、パッと離された腕が風に吹かれ冷たさを感じたと同時に、ほんのすこし寂しさが生まれたのは心の内に仕舞っておこう。

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