二十八日目 自然な流れで言葉が口から漏れ出てしまう

 待ちに待った木曜日。遅めの出勤だったために外はすでに月明かりと外灯に頼る時間帯になっている。

 今日までは宣言通り、自分の仕事のみに留まったもののミスひとつなくこなすことができた。ただ、貰えたのは頑張ったわねという褒め言葉。

 これは完全に上下関係故に出てくる言葉だ。教師が生徒に、母が子に、そして姉が弟に伝えるような。

 ちなみに優梨愛ちゃんに指摘されてから余裕という視点から自分を俯瞰してみたら、たしかにミスはないけれどミスをなくそうという意識が一挙手一投足に現れてむしろ滑稽にすら見えている気がした。


「このあと家に向かったら先輩ちゃんがいるってことだよね」


 見慣れた駅のホームから降りて帰路についている間、三階に上がってから廊下の先に見える影を想像してみる。

 ここまで二回お会いしたときは黒を基調とした服装を身に纏っていた。どちらも優れた容貌を際立たせる綺麗なもので、初回に吸っていた電子タバコはブロンドの髪と夜だったことも相まって格好良さすら感じさせた。果たして今日はシックなのかそれともここまでとのギャップでワンポイントの可愛らしさを見せてくるのか、楽しみだ。


 一段一段踏みしめ、その先に待つお楽しみに対する高揚を助長させていく。

 そうして上りきり、左手にまっすぐ伸びる廊下を見れば今日は俺の部屋の前で扉と対面するようにコンクリート壁の手すりに両腕を乗せてスマホを触りながら待っていた。


 イカしすぎてませんか、先輩ちゃん。ここにタバコがあったら元ヤンと間違える自信しかないぞ。いや、もしかしたらその可能性はあるのかもしれないけれど。


 声をかけるのはお隣さんのことを考慮して近付いてからにしよう。

 それにこの暗い雰囲気のなか、闇に飲まれてしまいかねない細いシルエットでありながら決して消えることのない灯のようなブロンドの髪を風になびかせる姿をすこしでも長く見ていたい。


「ん……遅いよ、お兄さん」


 先輩ちゃんは顔をこちらに向けて話しかけてきてくれる。

 結局明かりのないお隣さんの扉の前で足音に気付かれちゃった。


「ごめんごめん。先週、夜はこの時期でも寒いから早く来るようにしているって言ってたもんね。そのこと完全に忘れてて、出勤時間遅らせちゃってさ」

「随分自由な会社なんですね。それともフリーランス?」

「なんてことない会社員だよ」


 まあ、そのなんてことない位置にまで上り詰めたのがつい最近なのは黙っておこう。

 ところで近付いたことにより、ぼやけていた服装がはっきりと見える。どうやら白のタンクトップに黒のジャケットを羽織っていたみたいだ。脚が長いからデニムとジャケット部分しか見えなくてさっきは周囲と一体化しているように見えていたんだな。


「お兄さん、いつもまず初めに私の身体見るよね」


 あっ、やばい、変態認定されちゃうかも。悪意はないんだけど、どうしても目を惹くんだよな。もはや、引っ張られているのかもしれない。


「気を悪くさせてしまったかな。ごめんね。どうして毎度黒が中央にあるファッションなのに飽きさせず、格好良さを引き立てているのか気になっちゃってさ」

「ふふっ、なにそれ。まあ、いいけどさ」


 どうやら通報は免れたみたいだな。良かった……。ホッと胸をなでおろし、彼女の前に立ってリュックから取り出した鍵で扉を開ける。

 外で話しているといつお隣さんが帰ってくるか分からない。優梨愛ちゃんが特に何も言っていなかったから寝ている可能性もあるとはいえ、危険を冒してまで外で話すメリット自体なにもない。

 背後にいる先輩ちゃんも異論を唱える様子がないし、このままなかに案内しよう。


「どうぞ」


 扉を全開にして迎え入れる態勢を整えた。

 スマホをどうやらもう片方の手に持っていたハンドバッグのなかに仕舞い、誘われるがままに俺の家へと入っていく姿は勇敢ではあるけれど、少々警戒ぐらいはした方が良いんじゃないかと心配になる。そのままその場でしゃがみ靴を脱いで廊下に両足をつけたところでこちらを振り向いた。


「これで私はお兄さんに逃げ道を塞がれて閉じ込められたも同然な状況になったわけだけど、何もしないでよ?」

「するわけがないだろ。馬鹿なこと言ってないでほらっ、そのまま先のダイニングに入るか、すぐそこに見える洗面所で手を洗うかしなさい」


 優梨愛ちゃんもそうだけど、どうしてこう悪戯というか挑発的な笑みを浮かべて言葉がスラスラと出てくるのか。

 あと、いつのまにか話し方がラフになったな。失礼な物言いでなければ敬語がどうこうは気にしないタイプだから既に受け入れていたけど。多分、先輩ちゃんに優梨愛ちゃんから話が通っているはずだから、そこを考慮して変に距離を感じさせないように接そうとした結果なのかも。

 もしそうなら、あちらも既に疑似恋愛を受け入れていることになる。ただ、決めつけないで一応聞いてはおいた方がいいよな。


「あのさ、手を洗いながらでいいから答えて欲しいんだけど、いろいろと話は耳に入っているんだよね?」

「もちろん。でなきゃ、たとえ後輩が気に入っている知り合いとはいえ、家になんか入らないよ。それとも私がそんな尻の軽い女に見えた?」

「あまりイジメるのはやめてくれ。そんなこと思うわけがないだろう」


 だよねと、柔らかい表情で洗面所から出てきた先輩ちゃんはダイニングへ入っていこうとしている。

 そうだ、これからの呼び名のことを話しておかないと。


「先輩ちゃんはさ、本名なんて言うの?」

「んー、久城くじょうゆり、あーえっと、悠里ゆうりはるかに里って書いて悠里」

「ビックリした! 一瞬こんな近くにゆりあって名前の女の子が二人もいるのかと思っちゃったよ」

「あはは、そんなわけないじゃん」


 悠里ちゃんはわざとらしく声を大きくして乾いた笑いを浮かべている。こちらを向いてはくれないからどんな表情でいるのか分からないけど、馬鹿にされてそう……。

 普通に考えたらそんなこと有り得なかったわ。それこそドッキリみたいに仕組まれてない限り。

 ああ、じわじわとこっちが恥ずかしくなってきた……。


「それもそうか。ごめんごめん。気を取り直してこれからどうしていくか、君がどれだけ協力してくれるのか話そう。服、着替えてくるから座椅子に座って待ってて」

「了解」


 そう言って悠里ちゃんがなかに入っていったところを確認してから俺は自室に入り、仕事着を脱いでハンガーにかける。そして、パンイチになるわけにもいかないので部屋着に着替えた。

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