二十九日目 なにもかもが未知のまま
ダイニングにて麦茶の入ったコップを二つテーブルに並べ対面に座る。
「あっ、なんか失礼なこと考えてるでしょ?」
胡坐をかいている俺に対して座椅子の上で三角座りのような姿勢を取っている悠里ちゃんが顔を覗くように突っ込んできた。
考え事をしているとき、つい顔を見てしまっていたのかな。誤魔化しておくか。
「そういうのじゃなくて、先輩ちゃんとか悠里ちゃんとかどう呼ぼうかなって思ってさ。すこしでも恋人の雰囲気を味わって優越感から余裕を生めるようにするために必要かもなーって」
「たしかに、成人済みなわけだからちゃん付けは親戚のおじさんだけで十分だよね。それに年上からだとなおその空気感が増してさ。普通に悠里でいいよ。私は
「それこそキャラじゃないように感じるけどね。互いに呼び捨てでいいんじゃない? 俺はそれぐらいの方が好きだよ」
若くして大人の格好良さを備えている悠里にはそれぐらいスッと言ってくれた方が似合っている。
それを本人もわかっているみたいで、うんうんと頷いた後慣れるためだと言って二度俺の名を口にしてくれた。
正直、気持ちは舞い上がっているよね。好きな先輩と同じタイプの人だから、なおのこと。ニヤニヤしないよう頬に力を入れないといけない。
「清史っていい名前だよね」
「そう? 皆に
「せっかくの名前なのにマジョリティに負けるなんてダサくない? 私は好きだけどなー、特に
嬉しいことを言ってくれたのに自分こそ卑下しているじゃないか。
マジョリティではないとはいえ、概ね名前を大事にしろということを言いたかったと思ったんだけど違ったのかな。
「どうだろうね。結局、人それぞれなんじゃない。とはいうものの、俺は悠里が好きだし、おかげで訓読み続きの自分の名前がすこし好きになれたよ」
「なら良かった」
さて、ここからは必要な話を進めていこう。
「ところでさ、俺たちは互いのことを殆どなにも知りやしないだろう。年齢すら一方的に知られているだけだし。そもそも恋人という存在を俺に意識づけて心に余裕を生むために悠里が協力してくれている理由すら教えられていない。そのことを踏まえて、情報の共有はしておくべきだと思うんだ。どうかな?」
話し終えるまで見映えする顔を見せてはくれなかった。届いたのはうーんと、なにかを考える際に時間を稼ぐため絞り出される言葉のみ。
そこまで悩むほどのことかと思いはするが、なにかしら事情があるのやもしれない。だからこそ、俺は話を続ける。
「怒らないで聞いて欲しいんだけど、正直に今、感じていることを吐き出すなら気持ち悪さがずっと胸のなかに残っているんだよね。というのも、優梨愛ちゃんとひょんなことから出会いを果たして仲良くなったのがおおよそ三週間前。それなのに俺の悩みを解決するために自分が主体となって動くならまだしも、今日まで名前すら知らなかった君を寄越してきた。これを怪しいと思うのは一般的な感覚だと思うんだ」
名前のくだりにあったようなふんわりとした空気が一変し、徐々に重たくなってきているのを感じる。
初めからこんな展開にさせてせっかくの協力者に失礼ではないかと文句を言う輩もいるだろうが、まだなにも始まっていないじゃないか。
俺と悠里はスタートラインの前に立ち並んでいるだけ。その状態で事前に相手の情報をある程度集めておきたいと考えるのもやはり至って一般的なものだと思う。
現に悠里はまだ何も答えていない。これを答えたがらないと受け取ることになんら間違いはないだろう。ただ、俺は優梨愛ちゃんも目の前で絞り声すら出さなくなった悠里も信じたい。
何も難しいことを聞いているわけじゃないからこそ、ここまで静かな空間が出来上がったことに少々驚いてはいるけどね。
「えっとさ、清史の言っていることはわかるよ」
ようやく口を開けてくれた。ひとまずは安心だ。このまま黙り込んで逃げ出そうもんなら怖くて引っ越しまで考えなければならなかったから。
あとは話のなかで俺の顔を見て話してくれたら助かるんだけどな。
「私が同じ立場なら美人局を疑うもの。どうして優梨愛本人がその相手にならないんだって疑問が浮かぶのも理解できる。でも、そこにはいろいろなことが絡んでいて、私のことならなんでも話すから、それで許してくれない?」
声が掠れていることから察するに今言ったことに嘘はない。緊張であったり、ストレスであったり、そういう精神的な面が影響してのことだろうから。それ故に口のなかが乾いてしまい、俺の返事も待たずに悠里はコップに口をつけて喉を潤している。
さあ、どうしようか。
悠里にとって今の提案が譲歩の限界ならここから粘っても仕方がない。むしろ、それ以上を求めようとすれば今回の話自体がなくなってなにも知らずに不安だけ抱えて終わる可能性もある。
それと俺自身、この空気が好きじゃない。もしかすると、話している最中に声色が低くなってしまっていたのかもしれないから、穏やかな声で話すことに努めていこう。
「まあ、俺も別に責めようってわけじゃなくて、どうしてなんだろうって思っていたことを口に出したかっただけだから、そんな張り詰めなくていいよ。
知りたいのも初めから悠里のことだけだし。優梨愛ちゃんのことで強いて言うなら、あの子のお願いを聞くのには何か理由があるのかってことぐらいかな」
「それは……同じだよ。清史と一緒。いろいろ手伝ってもらったんだよね」
なるほど。だから、優梨愛ちゃんは何でも言うことを聞いてくれると言っていたのか。この二人の関係性を簡単に知れただけで疑問の大部分が消えていった気がする。
恩義を感じているからお手伝いも厭わないというのはいつまでその上下関係でいるのかによって善し悪しが変わるとは思うけれど、不満げな様子は今日会ったときも以前二人の会話を聞いていたときも感じなかった。つまりは現状良好な状態にあると言えるだろう。
これはあくまで推察だが、悠里の恋愛相談は自分がn番目の女としてでもいいからお隣さんと関係を持つことだったのかもね。
「あの子ってどんな策を講じてでも欲しいものを手に入れるみたいな、そういう芯の強さを持っているから友達としているには凄く助かるんだよ」
「それは俺も理解しているよ。そもそもその結果が今の状況を作り上げているんだからね。さて、じゃあここからは悠里のことを根掘り葉掘り聞きだして丸裸にしちゃおうかな」
「ふふっ、なにそれ。気持ち悪さ満載なんだけど」
おっ、笑ってくれた。
これでなんとか流れを良い方向に持っていくことができる。あとは質問を繰り返して理解を深め合えばまた顔を向けてくれるだろう。
優梨愛ちゃんが多くをベールで包んだまま渡してきたから変な空気が出来上がってしまったけど、ようやく第一歩を踏み出すための準備を済ませられそうだ。
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